メッセージ - A年 年間

今年の「キリストの聖体」の祝日の福音は命のパンについてのイエスの講話(ヨハネ6章)の一部から読まれます。この講話の前に、イエスは5千人に食べ物を与えるしるしを行いました。その時に、イエスは少年が持っていた二匹の魚と五つのパンを取って、感謝の祈りを捧げて、人々に与えます。この一連の動作はミサ毎に司祭が繰り返し行っています。パンのしるしの後、イエスは湖の上を歩くもう一つのしるしを行いました。その時に、怖がっている弟子たちにイエスは「私だ。恐れることはない」とたしなめました。

二つめのしるしの後、イエスが増やしたパンを食べて満腹した人々はまたイエスの周りに集まってくるので、イエスは機会的に、当たり前のようにはパンを与えるのではなく、彼らを試すような言葉を投げかけます。「あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と。この言葉は、毎日ご聖体をいただいている私たちにとっても、試される言葉です。毎日ご聖体をいただいているのですが、その中で込められるイエスの思いにちゃんと気づいているのでしょうか、ということです。食べているパンはただのパンではないことを人々は分かっていません。イエスが与えたパンはイエス御自身;御自分の体であることを人々は理解していません。

命のパンについて話す時に、イエスは生々しい言葉を使っています。イエスが与えるパンは自分の「肉」である。「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得る」(v. 53)。これは、決して聞き流せる言葉ではありません。この言葉を聞いた多くの弟子は「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」。そのために、多くの弟子はイエスを離れ去ったのです。その後のことはご存じのように、「あなたたちも離れていくのか」というイエスの問いに、ペトロは「主よ、あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。私たちは誰のところへ行きましょうか」と。ご聖体の前に私たちも繰り返している言葉です。

ここでイエスが言っている「私の肉」とはギリシア語ではSarxという言葉が使われます。「肉、肉体」という意味だが、これは中立的な意味での「肉体、Soma」とは違って、軽蔑的、マイナスの意味が含まれています。「肉体、Sarx」は:弱く、病気になる、死んでいく、腐っていく、不完全な肉体、罪を犯す体を指します。イエス自身は、罪を犯したことがないです。ですから、イエスがわざわざここでSarx使うのは何を言おうとしているのでしょうか。

イエスが言いたかったのは、ご自分の「体」とは、生身の人間から構成されている教会共同体をも暗示しているということです。新約聖書の中で、「キリストの体」と言う時に、それは三つのことを指している:①イエスのこと(マリアから生まれ、十字架につけられた体)。②ご聖体のこと。③教会のことを指します。第2朗読のパウロの言葉に暗示されているように、私たち一人一人がキリストの体です。イエスが天に上げられた後も、キリストの身体は、ご聖体と教会共同体を通して今もなお生きているということです。

ですから、ご聖体をもらいに行く度に、司祭が「キリストの身体」と言って、「アーメン」と答えますが、その「アーメン」は、十字架上に付けられたイエスの身体と同時に、もう一つのキリストの体、教会共同体、つまり、お互いに対する「アーメン」でもあります。永遠の命を得るために、イエスの御体と同時に、罪や弱さを持っている生身の人間からなっている教会共同体、私たちがお互いのことをも受け入れる、認める、いただく必要があるということです。

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