メッセージ - A年 年間

第1朗読で、「何事でも願えば良い。あなたに与えよう」という神様の言葉にソロモンは民を導くための知恵を願いました。この願いはソロモン自身の自己理解と同時に彼の価値基準と物事の優先順位が現れています。ソロモンにとって自分のことよりもイスラエルの民のこと;権力よりも善悪を聞き分ける心;長寿や健康よりも知恵を選びました。そこにソロモンの価値基準と物事の優先順位が現れます。我々も日々様々な場面で物事を選択することを行っています。その一つ一つの決断に自分自身の自己理解と価値観や価値基準が現れています。

マタイ福音書の神の国のたとえ話の中の人も畑にある宝物や良い真珠を購入するために自分が持っている全てのものを売り払いました。つまり、その他のものを犠牲にしてもその宝物を手に入れたいということです。神の国はそのような宝物です。そこに彼の価値基準が見られます。彼にとってそれが何よりも価値あるものであり、他のものより最優先すべきものだということです。

現代世界は我々の目の前に様々な可能性を用意しています。何を選ぶのかという決断に迫られています。一つを選ぶことは、他のものを諦めるということです。そうすると正しい決断をする必要がありますが、そのためにやはり物事を「より分ける」知恵が必要です。その意味で、ソロモンは正しいものを選んだということです。

マタイ福音書の神の国のたとえの続きに、天使たちが良い魚と悪い魚を分けるように、世の終わりに正しい者と悪い者がより分けられる話があります。マタイ福音書の25章の最後の審判のたとえにも羊とヤギが分けられるように、人々も永遠の報いを受ける右の人々と永遠の罰を受ける左の人々が「より分けられる」話がありますが、神様は人々を分け隔てるということを意味するのではないと思います。イエスはすべての人が救われるように、誰一人が左側に行かないように、誰一人悪い魚のように投げ捨てられないように、そのような思いでこれらのたとえを話されたと思います。そのようなイエスの思いを答えるために日々の我々自身の正しい決断が必要です。我々自身は日々良いものと悪いものを「より分ける」ことが必要です。

第2朗読のパウロのローマの信徒への手紙の中で、「神は前もって知っておられた者たち」や「神があらかじめ定められた者たち」を義とし、「義とされたものたちに栄光をお与えになる」という言葉がありますが、これは一人一人の運命を語っているのではないと思います。むしろ、希望を与える言葉として受け止めなければなりません。

今、ここで、神様が「何事でも願えば良い。あなたに与えよう」と言われたら、自分はいったい何を願うのでしょうか。

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