メッセージ - A年 年間

今日の福音で聞く、有名な「フィリポ・カイサリア地方での議論」はある意味でもっと前に洗礼者ヨハネがした質問に答えようとしています。マタイ福音11章3節に、牢獄にいたヨハネが弟子を遣わしイエスに「あなたは来るべき方(=メシア)ですか」と尋ねさせた。その時、イエスは直接答える代わりに、自分が行っている業を見れば良いとだけ答えました。そこで今日の福音では、ペトロの口を通して福音記者はイエスは誠に救い主でありメシアであることを宣言しています(16章13ー17節)。この場ではイエス自身は自分の弟子に尋ね、自分は洗礼者でも預言者でもないことへの信仰を表す機会を設けています。使徒たちの代表をたびたび務めたペトロはイエスのメシア性の意味が本当に理解できていたかどうかが分からないが、彼の信仰告白はただ人間の理性の考える結果ではなく、「天の父から与えられた」恵みであり幸せであることが分かります。

後半(18ー20節)では「天の鍵」の象徴が使われ、使徒団に与えられた権限、特にその頭となったペトロに授けられた権限の話があります。ヘブライ語的な思想では「鍵」はそれを持つ管理者の行う行為、つまり開けることと閉めること、ひいては許すことと禁じることを意味します。大事なのは、家の持ち主ではなく、それを預かっている代理人のすることであるということです。礎であり主人であるイエスがいなくなっても、彼の代理人である使徒を柱とし、教会は永遠に続きます。イエスに選ばれ信仰を強められたペトロと彼と一致する使徒は(名前まで変えられて)「岩」となり、世の荒波に揺れ動かされつつも、流されてしまうことも壊されることもありません。それだけではなく、「闇と死の力」にすら打ち勝つだろうと書かれています。これは明らかにイエスの復活を先取りする話であり、イエスが死に滅ぼされず勝利したのと同じように、いや、キリストによってキリストと共にキリストの内に、教会もまたこの地上の団体だけではなく、天国にまで続く交わりであることと、信仰に加わった人々を永遠の命に生まれさせる共同体であることを強調しているのです。

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