メッセージ - A年 年間

どの人でも他者と人間関係を作ることに招かれています。受け入れ合いや助け合い、愛は人間の絆を強めるものですが、争いや分裂、憎しみなどがこの絆を損なうものなのです。このような経験は私たちみんなにあると思います。

第一朗読のシラは、憤りと怒りは「ひどく忌まわしい」ことであると忠告し、隣人から受けた不正を赦すように呼びかけるのです。赦しは複雑な人間関係ですら癒すものだからです。

私たちも家族の中に、仕事場に、教会の中に生活する中に様々な人間関係があります。この人間関係の中で、相手を愛するように、必要であれば赦すように招かれています。赦しと愛の必要性はよく知られていることだと思いますが、いつ赦せば良いのかとか、どのように赦せば良いのかとよく問われていると思います。

今日の福音の中にあるペトロは「主よ、兄弟が私たちに対して罪をおかしたなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」という質問をするのです。ファリサイ派たちと律法学者たちは律法による「やらなければならないこと」をよく数えた上で、イスラエルの民衆にもその守り方を教えました。この点ではペトロの考えは同じです。しかし、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とイエスはペトロにお答えになります。それは、兄弟に限らず赦さなければならないという意味です。愛と赦しは神から頂けるものだからです。「神は私の罪を赦し、痛みをいやされる。私の命を危険から救い、慈しみ深く祝福される」と詩篇103篇に記録されています。したがって、いただいた神の慈しみを伝えない人は厳しく言われます。「人が互いに怒りを抱き合っていながら、どうして主からいやしを期待できようか。」と。赦しは人間関係だけではなく、人間の心も癒すものです。一致そのものが赦しの結果だからです。さらに、「だれ一人自分のために生きることではなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」という言葉通り、主キリストとの絆を自覚すればするほど、赦しと愛はわたしたちの一番トップの人生のプログラムになるわけです。

私たち自身も神の癒しをいただくために次のような質問をしましょう。神様の赦しをいただき、それに感謝したことがありますか。赦しが必要な人が自分のそばにいませんか。赦しにはたくさんの努力が必要だと分かっていても、仲直りを諦めたことがありませんか。人間には、お互いに傷つけたあった時にこそ、神様の癒す恵みが相手のまた自分自身の人生に入ることができますようにという祈りがどれほど必要でしょう。

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