メッセージ - A年 年間

「心の貧しい人々は、幸いである」、「悲しむ人々は幸いである」、「義に飢え渇く人々は、幸いである」、「義のために迫害される人々は、幸いである」などがそうですが、そう考えると、他の「幸い」とされている人々も、この世的な価値観からすれば苦しんでいる人のことを指しているのかもしれません。「柔和な人々」はそのために人にいいように利用され、与えてばかりで自分は失うだけの「憐れみ深い人々」や馬鹿正直な「心の清い人々」は生き馬の目を抜く世の中では損をするばかり、「平和を実現する人々」は争いが常の世界で茨の道を歩んでいる、そういう理解があるのかもしれません。いわゆる山上の説教の真福八端では、いくつもの逆説的な「幸い」が語られています。

こうした人々が「幸い」とされていますが、その「幸い」とは一体何なのでしょうか。十年、二十年我慢すれば逆転して報いがある、ということではなさそうです。「天の国はその人たちのもの」、「その人たちは神を見る」、「天には大きな報いがある」と言われているからには、現世的な利益を期待するのは無理でしょう。

それでも心を貧しく、清く保ち、柔和で憐れみ深く、義を求め続けますか?そう問われている気がします。「幸いである」という言葉は力強い慰めの表現ですが、まずはその価値観を受け入れるかどうか、という問いが突きつけられています。

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