メッセージ - B年 待降節

待降節が始まり、教会の暦の上では新しい年になります。今年の朗読聖書のサイクルはB年です。

さて、私たちが「待降節」に「待」つのは、誰が「降」ってくることでしょうか。クリスマスというと、馬小屋の中で幼子イエスを囲む父ヨセフと母マリア、そしてお祝いにやってきた羊飼いと動物たちという、ただただ幸せな情景を思い浮かべて、何となくほのぼのとした雰囲気になってしまうのは当然かもしれません。

けれども、待降節に読まれる聖書箇所をよく見ると、私たちは生まれたばかりのあどけない、しかし何もできない幼子のかわいらしい笑顔をただ待っているのではない、ということが分かります。

第一朗読のイザヤ書(63:16b-17、19b、64:2b-7)では、イスラエルが自分たちの罪のために滅ぼされ、捕囚の地に連れて行かれ、解放された後も荒れ果てた国で困難の内に生きている中で、神の救いを祈り求める姿が描かれています。

第二朗読のコリントの教会への手紙(一コリ1:3-9)では、私たちがキリストに結ばれ、キリストとの交わりの内に、主イエス・キリストが再び現れるのを待ち望むけれども、「最後まで」主が支えて下さってはじめてそれが可能になるという厳しさが示唆されています。

福音朗読のマルコ(13:33-37)では、イエスが弟子たちに「目を覚ましていなさい」と三回も繰り返しています。僕(しもべ)が責任を持たされているように、門番が目を覚ましているように、私たちも「気をつけて」、いつなのか分からない「その時」を注意して待ちなさい、と緊張感にあふれた口調でそう語られています。

これらの聖書箇所は「あたたかくほのぼのと過ごすクリスマス」とはかけ離れているかもしれませんが、コロナ禍にある私たちにとっては逆に希望や慰めとなります。私たちのもとに来られる方は、厳しい現実の中に生まれました。私たちの痛みや悲しみ、苦しみにこそ、そのまなざしは向けられています。

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