メッセージ - B年 四旬節

受難の主日ということで、今週の主日の三つの朗読では、主の受難が共通テーマになっています。

第一朗読のイザヤの預言(50:4-7)では、バビロン捕囚にある預言者によって、「主の僕(しもべ)」の苦しみに耐える様子がありありと語られていますが、そこでは「わたしは」とか「わたしが」という言葉が繰り返されています。まるで主イエスご自身が苦しみの内に独白しているのを聞いているような気持ちになります。

第二朗読の使徒パウロのフィリピの教会への手紙(2:6-11)では、神の子が人となり、へりくだって、自分を無にして、しかも十字架の死にまで至った、だからこそ、それによって逆に神に高く上げられた、と語られています。

そして福音書からは、マルコによる主イエス・キリストの受難(15:1-39)が読まれます。これはイエスの十字架の場面で、もちろんイエス自身が物語の中心にいますけれども、その言葉や能動的な行動の描写は驚くほど少なく、裁判の場面での「それは、あなたがたが言っていることです」と十字架上で息を引き取る直前の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という二言だけしかイエスの言葉はありません。捕らえられ、縛られて引いて行かれ、鞭打たれ、侮辱され、つばを吐きかけられ、十字架につけられて、殺された、為されるがままになっているイエスの姿が描かれているだけです。

それに比べて、周りにいる登場人物は口数多く語り、積極的に行動します。祭司長たち、律法学者、群衆、バラバ、キレネのシモン、一緒に十字架につけられた者たち、そしてローマ人である、ピラト、兵士たち、百人隊長、いろんな人たちが、それぞれの思惑で動き、語り、騒ぎ立てています。けれども、その真ん中にいるイエスは、静かに、ただ苦しみを受けながらたたずんでいます。まるで、台風が吹き荒れている大嵐の中で、中心の台風の目だけは雨も風もない、穏やかな天気でいるような、そんな印象的な情景です。

私たちが置かれている状況、生きている世界も、受難の場面と同じかもしれません。イエスはいつも私たちの真ん中におられます。けれどもその姿は目立つことなく、その言葉を耳にすることもありません。人々は皆、イエスのそばにいますけれども、ある人は敵対し、ある人は馬鹿にし、ある人は理解せず、しかし一方で、ある人は神の子だと認めます。私たちは十字架の元に立って、どのようにイエスを見上げているでしょうか。

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