メッセージ - B年 復活節

もしも、復活の朝に、イエスの墓に一番先に着いたのは自分だったら、イエスの遺体がなくなった、墓が空になっているのを見て、どのように反応するでしょう。復活の主日に読まれるヨハネ福音書の箇所は空の墓を見た最初の三人の反応に注目しています。

まずは、マグダラのマリアの反応です。イエスの空の墓を最初に見たのはマグダラのマリアです。主の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行きました。墓に着いたマリアが見つけたのは、墓の石が取りのけられたことでした。それを見たマリアの反応は、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」。「主の初めの日、まだ暗いうちに」という時間の説明がありますが、これは文字通り、朝早い、物がまだはっきり見えない時間帯で、マリアは何が起こっているのかまだはっきり分からないということです。しかし、もう一つ重要な象徴的意味があります。「まだ暗い内に」というのは、信仰の光が差し込んでいることにマリアはまだ気づきなかったことを現しています。その時に、まだ暗い内に、空の墓を見たマリアは、イエスの遺体が誰かに盗まれたということしか見えていませんでした。まだ暗いうちに、まだ世の光そのものと個人的に出会う前には、イエスの死も、イエスの遺体がなくなったことも誰かのせいにしか見えませんでした。それがイエスの復活に対するマリアの最初の反応です。

これまで、マグダラのマリアは彼女なりのイエスとの出会いの体験がありました。イエスにゆるされたこと、助けられたこと。彼女にとって、イエスは命の恩人です。いつまでもそばにいてほしかった存在です。失いたくなかった存在です。そんな彼女にとってイエスの死の悲しみは大きかったです。ましてや、遺体までなくなったとは。誰かのせいにしないと、イエスをなくした悲しみは耐え切れないことでしょう。イエスが「マリア」と彼女の名前を呼ぶまで、彼女が復活したイエスと個人的に出会うまでは、イエスが復活したことに気づきませんでした。

次は二人の弟子:ペトロともう一人弟子、イエスの愛弟子ヨハネの反応です。マグダラのマリアの知らせを聞いたペトロともう一人の弟子、愛弟子は急いで墓に向かいました。二人は墓に走りましたが、ペトロよりも愛弟子の方が足が速かったので、先に墓に着きました。二人は、空になった墓とその中に残された亜麻布を見ていました。二人ともイエスの復活について聖書が書いたことをまだ理解していませんでした。イエスの復活をまだ理解していないが、空の墓を見た時に、愛弟子はそれを見て「信じました」。空の墓を見た愛弟子の最初からの反応は「信仰、信じること」です。愛弟子は、イエスのことを頭で理解する前に、イエスのことを信じています。一方、ペトロの反応は何も言及されていないことは興味深いです。ペトロも愛弟子の様に、イエスを信じていることは確かです。しかし、彼の反応が何も語られていないのは、興味深いです。

愛弟子は確かに模範的な存在です。ペトロよりも早く走ったし、空の墓を見てすぐに信じていた。しかし、誰の信仰がより大きいか、誰がもっとすごいか、ペトロよりも愛弟子、マグダラのマリアよりも二人の弟子ということが問題ではないです。信仰は比較するものではないです。それぞれにはイエスが生きていた時に、イエスとの個人的な関わりがあります。それぞれの反応は、それぞれがどのようにイエスと関わってきたかで特徴付けられます。愛弟子は、その名前の通り、いつもイエスのそばにいます。最後の晩餐ではイエスの胸元にいました。イエスの十字架のかたわらでイエスの母と共にたたずむのです。それだけイエスと近い彼にとって、復活は説明する必要はないのです。

ペトロの場合、彼は自分の弱さを抱えながらも忠実にイエスに付いてきました。大切な場面でたびたびペトロは弟子たちの代表として登場します。しかし、一見しっかりした男だと見えても、ペトロはもろい人間です。簡単にイエスのことを「あの男は知らない」と拒んでいます。そんな自分の弱さを抱えながら、それでもイエスを捨てなかった、イエスに付いてきたペトロにとって、空の墓を見た時の気持ちは複雑だったでしょう。自分の気持ちを表す言葉を見つけなかったでしょう。

こうして、イエスの復活に対する反応は、これまでそれぞれ、ペトロが、愛弟子が、マグダラのマリアが培ってきたイエスとの関わりによって特徴づけられるのです。それぞれにそれぞれの反応の仕方が違います。しかし、共通することがあります。それは、彼らはイエスを愛することです。愛弟子も、ペトロも、マグダラのマリアも。そして、私たちも同じです。今ここでイエスの復活に対する私たちの反応は、日々自分がイエスと培った個人的な関係がどの様なものなのか次第です。