メッセージ - B年 年間

ミサの朗読はいつも様々な視点から解釈することができますが、今日、その中心的なメッセージの一つは次だと思います。書かれていようが書かれていまいが、神の言葉はまず真理の言葉であり、それ自体で十分であり、それを授かった人は誇ることができます。神の言葉について論じたり説明したりするのではなく、それを素直に受け入れて、実行するように私たちは招かれています。

第2朗読にこう書いてあります。「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」もっと理解すべく自分で考えることは良いのですが、神の言葉を自分の考え方に合わせる危険があります。

すなわち、人間は神の戒めを自分に合わせたり、時には熱狂的になってあまりにも細かく考えたり、時には逆にそこから好きな部分だけ選んだりすることがあります。そのどちらのことも良くないのです。確かに、神の命令を各時代に分かりやすく伝えるために、表現を変えていかなければならないかもしれませんが、その精神を保つことが一大事です。表現はいつまでも不完全なもので、神の言葉をことごとく包容することはできないのです。ですから、人間が上に立ってその言葉を所有していると思ってはなりません。「減らすこともしてはなら。あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」と第1朗読にもあります。

ところが、神の言葉を忠実にそのまま保存したとしても、もう一つの危険があります。神の言葉を理論的なものとして捉えるのも問題なのです。救う力のあるこの真理の言葉については、本を書いたり説教を書いたりするのではなく、また言葉遣いを争うのではなく、まず慈しみの業を通して証しすべきです。その目的のためなら、つまり、神の言葉がより働くようにするためなら、本を出版したりすることもできます。

神の言葉を他の言葉や人間の言葉と同様の扱いができません。口先で唱える言葉ではなく、心に宿る言葉でなければ意味がありません。福音書でイエスが引用している預言者の言葉「人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」は常に私たち一人一人と私たち全員の反省点になっていると良いです。

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