メッセージ - C年 降誕節

今日、聖家族の祝日で読まれる福音では、少年時代のイエスが両親とともにイスラエルに上った時の話が描かれています。この両親はイエスがエルサレムに残っていることに気づかず帰りますが、イエスが居ないことに気づくと道を引き返しながら、三日間、イエスを探し続けます。そしてイエスを神殿の境内で見つけると、母マリアは「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」とイエスを叱っています。この場面は福音書の中でも、普通の両親の姿に近しい姿を感じます。マリアの一言は、福音書の中でも最も母親らしいのように思えますし、何も言わずに心配しイエスを探し続けるヨセフの姿も父親らしい姿と言えるように思えます。そしてイエスを心配する両親の姿は最も家族と言えるように思えます。この聖家族を祝う私たちですが、私たちですが、私たちが何故、聖家族を模範として崇敬しているのでしょうか?また私たちにとって聖家族がもたらす意味は何なのでしょうか?

マリアは当然のことながら、イエスの心配をしていた様子がその一言から読み取れます。一方でヨセフは聖書の中では一言も言葉を発していませんが、イエスが生まれてから、エジプトへ逃れたり、エルサレムに上ったりしているところを見ると、父親の存在と支えがあったからこそ、家族が守られていたように思えます。そしてそのことが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」という一言から伺えます。聖家族は神聖視されがちなように思われますが、母マリアと父ヨセフが、それぞれの仕方を通して、幼いイエスを守りながら生活していたということを考えたとき、普通の家庭と同じように互いに支えながら家族を守っていたように思えます。だからこそ私たちがそれぞれ家族、そして子どものことを想いながら、家庭を育むときに、その愛を主は祝福されています。そして私たちは家庭での愛を通して、神の愛が家族の愛を通して、知ることができるのだと思います。

また私たちの教会も一つの家族と言えます。各々がそれぞれの場で互いに奉仕し、支え合うとき、その奉仕が互いを想い、イエスの愛に繋がっているならば、そこにイエスが共におられるのだと言えます。奉仕の仕方は人それぞれですが、互いに愛で繋がっていることが大切であり、聖家族がそうであったように、私たちの絆をも主が祝福してくださるはずです。