メッセージ - C年 年間

今日の福音には、自身の故郷であるナザレの会堂での場面が描かれています。この福音の中でイエスは、その人々に向かって「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と教えられています。イエスをよく知っていた故郷の人々は、イエスをよく知っていたがために、イエスの教えと行ったわざを素直に受け入れることができません。ましてガリラヤの出身で大工の息子であったということから、宗教的な教育もなく、特別な存在とは思われていなかったように思えます。それだけに、イエスの社会的な立場や出身だけに囚われて、イエスが伝えようとした神の言葉、神のわざを理解することができなかったように思えます。私たちにおいても、家族や友人などの近い人の言葉は、意外に素直に受け入れられないように思えます。しかし、そういった私たちの家族、学校や会社、私たちの生活の中にいる親しい友人など、一人ひとりの中にイエスがおり、その人々を通して、イエスは私たちに語り掛けています。

しかし福音の中で民衆たちはイエスの言葉を聞いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言い、その後のイエスの言葉を聞いて、町の外に追い出し、崖から突き落とそうとします。イエスという人を知っていたが故の偏見や思い込みであったように思えます。私たちにおいても、偏見や思い込みで人の助言や考えを受け入れることができないことがありますが、だからこそ謙遜と人への尊敬の態度が必要になり、その中に神のことばを見出す必要があります。私たちは様々な国籍や地位の人々に囲まれながら過ごしていますが、イエスはすべての人々のために遣わされ、そしてすべての人々とともにおられます。私たちがその中に居られるイエスを見出すことが謙遜と尊敬の態度に繋がるように思えます。そして私たちは一時的には感情的になり、受け入れることができない助言や考えであっても、自分の中で「イエスならばどう考えるのか、どう思うのか」というイエスの視点になって、祈りのうちに人々とともにおられる神の導きを見出さなければならないのだと思います。