メッセージ - C年 四旬節

同じ「主の受難」のミサにおいて朗読される、入堂式に読まれる主のエルサレム入城の箇所(ルカ19:28-40)と、福音朗読の受難の箇所(ルカ23:1-49)の両方をくらべると、その二つの内容の、あまりの落差に心を動かされます。

エルサレム入城の時には、ろばに乗ったイエスが進んでいく間、人々が自分の服を道に敷き広げ、弟子の群れが喜び歓声を上げ、声高らかに神を賛美します。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」。

一方、受難において、イエスが訴えの場から民衆の前に引き出されたとき、人々は声を上げて一斉に叫びます。「その男を殺せ。十字架につけろ、十字架につけろ」。民衆がののしり叫び、婦人たちが嘆き悲しむ声を上げている中を、イエスは十字架と共に、ゴルゴタへと歩んで行きます。

どちらの場面でも、イエスは同じように人々の間を静かに進んでいきますが、それを囲む人々は、ほんのわずかの間に手のひらを返し、賛美は罵声に、栄光は屈辱の死に取って代わられます。

ここに描かれているのは、まさに私たち自身の、都合のいい身の振り方です。私たちは愛を説きながら憎しみによって人を傷つけ、喜びを望みながら悲しみを広めます。希望を持ちながら、絶望に身を委ねます。荒れ狂う嵐のように、私たちは右に行き、左に行き、好き勝手に態度を変えながら、騒がしく叫び続けます。

そんな中で、イエスは、十字架の死に向かう中で、苦しみにさらされながら、自分のことよりも嘆き悲しむ婦人たちの救いに心をかけ、十字架の上で敵意と憎悪に満ちた罵りを受けながら、自分を十字架につけた者たちへのゆるしを願います。

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