メッセージ - C年 年間

「私の隣人は誰なのか」というあの律法学者の質問がきっかけでイエスは良きサマリア人のたとえを話されました。この話の中に登場人物をもう少し詳しく見てみましょう。

先ず、追いはぎに襲われた人ですが、彼はエルサレムからエリコヘ下っていく途中でした。つまり、彼はユダヤ人だという可能性が高いです。地方に住むユダヤ人が都エルサレムに行く第一の用事はエルサレムの神殿で神様に捧げものを捧げることです。この人もその用事が終わって、帰っていた途中で襲われたということは考えられます。

彼が半死に状態にいた時に、その道に取り掛かったのが一人の司祭でした。もともと祭司の仕事はエルサレム神殿で人々の代わりに神様に捧げものを捧げる儀式を司る役割を果たします。おそらく、この司祭もエルサレムでの務めが終わって、地方に戻っていく途中であの追い履きに襲われた人を見かけたでしょう。

次に通りかかったレビ人も司祭と同じように、神殿で神様に供え物を捧げる儀式を手伝うのが仕事です。そうだとすれば、司祭もレビ人もあの追いはぎに襲われた人にとっては、同胞のユダヤ人です。同じユダヤ教の人、同じヤーヴェを信じる人、共通点が多い人たちです。

一方、もう一人そこに通りかかった人、あのサマリア人はユダヤ人にとっては軽蔑された人々です。サマリア人はもともとはユダヤ人ですが、アシリア帝国に支配されてから外国人と血が混じっているということでユダヤ人からは純粋なユダヤ人ではない、異端者とみなされるのです。

しかし、追いはぎに襲われた人を助けるのは、同胞のユダヤ人ではなく、軽蔑されて敵とみなされるサマリア人です。結局、追いはぎに襲われた人にとって、隣人となるのは、同じ民族、同じ宗教、しかも宗教指導者(神様の仕事をして、神様と一番近いと思われる人、もしかすると神殿で供え物を捧げた時に面識のある人)ではなくて、普段は嫌がられる人、軽蔑される人です。

隣人は、会う・会わない、好き・嫌い、関係者・関係者ではないという枠を超えるものです。枠を超えて目の前に困っている人を進んで助けることができた時に、初めて私はその人の隣人となるのです。一緒に住んでいても、同じ教会に通っていても、面識があって、ある程度は知っているからといって、その人の隣人になるのではないのです。その人のために時間を裂いて、その人のために自分の予定、自分の持ち物、自分自身を犠牲することができた時に、初めて私はその人の隣人となるのです。

良きサマリア人のようになるには、自分のところにやってくる人を待つのではなくて、自ら進んで声をかけて、たち止まって手を差し伸べる勇気が求められます。