メッセージ - C年 年間

この主日の福音朗読(ルカ15:1-32)では、3つ(短い朗読の場合は2つ)のたとえが語られます。いずれもわかりやすいイメージが用いられていて、容易に場面の情景が想像できます。しかし、たとえで語られるメッセージの理屈は、簡単に納得できるような当たり前のことではありません。

見失った羊のたとえ(15:4-7)では、見失ったたった1匹の羊を探すために他の99匹を野原に残す、というとんでもないリスクを冒すことが当然のように語られています。

無くした銀貨のたとえ(10:8-10)では、当時の日当にあたる額とされるドラクメ銀貨を無くして無事に見つけた女が、友だちや近所の人を呼び集めて一緒に喜んでもらおうとする、という大げさな反応がさも当然であるかのように描かれています。

そして放蕩息子のたとえ(10:11-32)では、放蕩の限りを尽くして財産を無駄に食い潰してしまった息子が、恥を忍んで父のもとで雇い人として受け入れてもらおう、としていたところ、そんな思いをひっくり返すような、それまでの勝手な振る舞いがなかったかのように最大限の愛情をもって息子を迎え入れる父親の姿が示されます。

神の子としての私たちは、番号で管理されるようなものでも、まとめて人数で把握されるようなものでもなく、それぞれがその名前を呼ばれ、その顔を見て大切にされる存在だということです。失われたものへの神の愛は、すなわち一人ひとりの人間の価値は、計算しては比べられない、数字で測れるものではない、ということが強調されているかのようです。