メッセージ - A年 四旬節

今日の福音朗読(ヨハネ9:1-41)では、イエスが生まれつき目の見えない人をいやし、それがファリサイ派の人々にとって問題となった、というエピソードが読まれます。この盲人は、人々にとって「座って物乞いをしていた人」(9:8)であり、何より「全く罪の中に生まれた」者(9:34)という先入観に基づいたレッテルを貼られて呼ばれました。しかし、イエスは目の前にいる彼とまっすぐに向き合い、彼を「あなた」とだけ呼び、「神の業がこの人に現れる」(9:3)と語ります。

また、ファリサイ派の人々はイエスのことも、安息日を守らない罪人である(9:16、24)と非難しましたが、一方でいやされた盲人はイエスを「預言者」(9:17)と呼び、「神のもとから来られた」(9:33)と確信し、人の子を信じる(9:35-38)と宣言しました。

イエスと盲人という二人の関わりは、第三者のファリサイ派の人々にとっては、罪人同士の罪深いやりとりでした。けれども、当事者の二人にとっては、神の業を実感させる恵みの交わりだったということです。本当に価値あるものを見出すことは容易ではない、ということは、第一朗読のサムエル記(サム上16:1b、6-7、10-13a)でも強調されています。預言者サムエルが新たに王となるべき人を探しているとき、彼は「容姿や背の高さ」にとらわれましたが、神は「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(16:7)と語ります。

私たちの目は、何を見ているでしょうか。私たちの目は、何を見ているでしょうか。目の前の小さな人との出会いに、日常のありふれた出来事の中に、神の働きを見出しているでしょうか。