メッセージ - A年 年間

今日の福音箇所は、天の国、つまりは神の国とはどのようなものであるかを語っているたとえ話です。この箇所では三つのたとえ話が出てきますが、特に最初の二つの「畑に隠された宝」と「高価な真珠」の話についてよく教えられるのは、解釈が一つではないということです。では、どういった解釈が出来るのかを見ていきましょう。

この箇所を普通に読んでいくと、隠されている宝や高価な真珠というものが、天の国、あるいはイエス自身であって、それを手に入れるためなら、自分の持っている全てを投げうっても構わない程の価値があるのだ、と解釈することが出来ます。とても直接的なメッセージの受け取り方ですが、これはこれで、その通りだな、と思える解釈だと思います。

もう一つ、別の解釈をするならば、この「宝」や「真珠」が、私たち一人ひとりの人間であると考えることもできます。今日読んだ箇所のもう一つのたとえである「漁」の話では、魚を集めている漁師が、良いものと悪いものを分けていますが、この話の中の漁師とは、神自身だと考える方が自然です。そうすると、この箇所の三つのたとえ話は、一貫して、買い求める、探し求める人が神であり、求められている宝や真珠、魚といった存在が私たち人間の方であるのだと読むこともできるわけです。今日の福音は、天の国がどういうものかを説明している箇所ですので、受け取り方によって、天の国は「非常に価値あるもの」、「全てを投げうっても手に入れるべきもの」と理解することも出来ますし、あるいは「全ての人間一人ひとりを招いている場所」なのだ、と考えることもできるのです。どちらの解釈も正しいと言えるでしょうが、個人的には、神自身が私たち全ての人間を招いている、求めているのが天の国である、という後者の考え方の方が好きですね。一人ひとりの人間というのは、神に求められるほどに価値のある、宝のような存在であるわけです。

それでは、求められている存在の私たち自身は、その神からの招き、呼びかけにどう応答しているでしょうか、応答すべきでしょうか。それぞれ生き方が異なる中で、自分としてどのように神に応えていくことが出来るか、私たちは、天の国がどういうものであるかを理解すると同時に、この点についても、しっかりと考え、日々の生活において実践していくことが肝要です。イエスが語るメッセージを様々な解釈で受け取りつつも、そのメッセージに対して、自分はどうしていくべきなのか、そこを考えることは、いつも大切であるのです。