メッセージ - A年 年間

今日の福音でイエスは群衆にぶどう園と農夫のたとえ話を話されています。たとえ話の中のぶどう園は、イスラエルのことを指し、農夫はその指導者たち、すなわち話の聞き手の中にいる祭司長とファリサイ派を指します。そして主人は神であり、神がイスラエルの救いのためにぶどう園に手をかけ、終末の時に向けてその面倒を農夫に任せます。しかし旧約の物語にあるように、奴隷、すなわち預言者たちを受け入れず、殺してしまいます。そして神は自分の一人息子であるイエスを送りますが、農夫たちはこの一人息子も財産、すなわち自分たちの権威のために、殺してしまいます。そしてこのたとえ話の締めくくりとして、詩編118編23が引用されます。家づくりの捨てた石、国を作る人間にとって不要と思われていた石が、新しい神の国を完成させる隅の親石となる、すなわち人間に受け入れられず、殺されたイエスが神の国の土台となることをこの詩編を引用し、たとえ話の締めくくりとしています。祭司長やファリサイ派の人々は、その偏見や高慢さ故にイエスを受け入れることができませんでした。一方でイエスを素直に受け入れた人々は、その出自や地位に関わらず、救いに与ることができることをこの詩編によって示しています。私たちも同様に、日々の生活の中で示されるイエスの導きを素直に受け入れる必要がありますが、その高慢さや偏見故に受け入れられないことがあります。

福音の中でイエスは「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われています。これはイエスの教えを素直に行け入れる人々、そして本当に救いを必要とする人々に天の国の救いが与えられることを意味しています。しかしその導きがどこから来るのかは、私たちにはわかりません。しかし、私たちが祈りの中でいつも謙遜を保ち、その導きを探し求めるならば、私たちの生活の中にその助けが示されます。だからこそ私たちは日ごとの祈りとミサの中で、いつも神が共にいることに信頼し、素直にその導きに従う必要があるのだと感じます。

私たちが偏見や高慢さを捨て、素直に神に従うことができるようにこのミサの中で祈り求めていきましょう。