メッセージ - B年 待降節

ヨハネ福音書は、「イエスが誰なのか」に関心があります。ですから、たとえば福音書の序文とされることろでは、肉となって私たちの間に宿られた「言(ことば)」だと言われていますが、他にも「命のパン」(6:35)、「良い羊飼い」(10:11)、「復活であり、命」(11:25)、「道であり、心理であり、命」(14:6)などと言われています。

今週の福音朗読箇所(ヨハネ1:6-8、19-28)では、イエスより先に洗礼者ヨハネが登場し、彼のアイデンティティが問われます。エルサレムのユダヤ人たちから「誰なのか」と、メシアなのか、エリヤなのか、あの預言者なのか、と尋ねられますが、ヨハネはそのいずれでもなく、自分は「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と宣言します。そして自分のことだけではなく、イエスについて「その人は自分の後から来られる方で、自分にはその履き物のひもを解く資格もない」と語ります。

洗礼者ヨハネの生涯は決して楽なものではなかったと思いますが、それでも彼は、ヘロデに殺されるまで、最後まで自分が誰であるか、何のために生きているのか、という自身の使命をまっとうしました。彼がそうすることができたのは、自分自身とイエスについてよく知っていて、どういう関わりをしていくか、自分が「後から来られる方」のために何をするべきかという、自分自身の使命をはっきりと見出すことができたからでしょう。

待降節は、イエス・キリストの到来の意味を問うときでもありますが、同時に、それが私たちにとってどういう意味なのか、そしてそれに対して私たち自身がどう応えて生きるのか、自分の生きる意味を問うときでもあります。洗礼者ヨハネは、闇を照らす光として来られた方の証しをする、ということを自分の使命としました。貧しさの中に、謙遜のうちに生まれ、病気の人、罪人、弱い人、苦しんでいた人に手を差し伸べ、十字架の上で命を献げるまで愛を貫いた、イエスの生き方と私たち自身の生き方をどうつなげるのか、が問われています。