メッセージ - C年 降誕節 |
今日祝う聖家族という日は、カトリック教会の歴史の中ではかなり新しい習慣と言えます。元々は300年程前にカナダの司教と信徒のグループで祝い始めたものでしたが、それが広まって、正式に祝日となったのは1900年代に入ってからのことです。この日には、毎年、イエスの幼年時代の話を聞いて、家族というものを考えることが大きなテーマとなっています。
この祝日は、聖家族を構成している子であるイエス、そしてマリアとヨセフという両親、この小さな家族に目を注ぎながら、自分たちの家庭を振り返ってみる、そうした日であります。年末年始は誰もが故郷や実家などに帰省したり、連絡を取ったりと、お盆と同様に自分達の家族を意識する時期でありますが、そうした季節に合わせて、教会がこの聖家族を祝う日を設定していることには大きな意味があると思います。
さて今日の福音では、イエスが12歳の時、エルサレムの過越し祭に行って両親とはぐれる箇所が読まれています。イエスがおよそ30歳になって家を出て、いわゆる公生活を始めるまでの間、福音書から彼の幼少時代の話はほとんど見つけることはできません。父親のヨセフはその後聖書に登場しませんが、どうなったのかとか、イエスが成長する間にどのようなことがあって、人間としてのイエスの思想や倫理観を作っていったのか、とか、何も書かれていないわけです。当然、福音書の記者たちも、イエスの少年時代のことはわからないですし、弟子たちと過ごす間も、イエスは自分の家のことをあまり語らなかったのかも知れません。ですが、その語られない家族との生活の中で、間違いなくイエスは育って、現代にまで伝わる教え、言葉を残す、そうした人物となったわけです。だったら、そこにはどういう家族、両親の影響あったのか、生活の環境がどうだったのか、このような隠れている福音書の行間というものを、あくまで想像の域は超えないかも知れませんが、黙想してみる、そしてその家族の姿に、今のキリスト者の家庭はどう倣っていけるだろうか、そうした思案を試みることも、今日の聖家族の日の意味の一つであると言えるでしょう。普段は福音書のメッセージから何かを受け取りますが、福音書の行間から福音を読み取る、という聖書の受け取り方というものを、私たちはこの聖家族をテーマにして黙想してみたいと思います。
また今日から世界中の各教区において、25年に1度の通常聖年の記念が開始されます。それぞれが、主日の集いに感謝し、新しい年も共にこの集いを良い形で持ち続けることが出来るように、そして様々な困難の中で、教会に行くことが難しい方々のことを心に留めながら、全てのキリスト者と心を合わせて、新しい聖年を過ごして行くことができるように祈りましょう。
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