メッセージ - C年 降誕節 |
きょうは、主の洗礼の祝日です。きょうの聖書によると、主イエスは多くの民衆とともに洗礼者ヨハネの元に行って、洗礼を受けたということです。洗礼者ヨハネが、「罪の」赦しのための悔い改めの「洗礼」を宣べ伝えると、それに呼応して、ユダヤからもエルサレムからも人々が続々と出て来て、「罪」を告白して、洗礼を受けた様子がマルコ福音に記されています。
では、もしヨハネの洗礼はこのような意味を含まれているなら、なぜ罪の無いイエスはわざわざ洗礼者ヨハネの元で洗礼をお受けになりましたか。実は、イエスの洗礼には特別な意味があります。
まず、一つ目は、主イエスが私たちに洗礼の重要性を教えてくださいました。水に浸ることは、死と清めを意味すると共に、再生と一新の象徴でもあります。したがって、洗礼には罪の清めと聖霊による新たな誕生という、二つの主な効果があることを主イエスに示されました。
そして、二つ目の意味は、イエスのインマヌエルの神聖を示してくださいました。罪のないイエスが罪人の列にご自分の身を置かれて、皆と一緒に並んで、同じ川に入って、同じ水で、洗礼をお受けになったという行動を深く考えてみれば、主イエスは、「上」から人間を救おうとはされず、むしろ「下」から、人々と交わりながら、ともに悩みや苦しみ、痛みや悲しみを共感して、私達に救いをもたらしたいと望まれたということです。これがまさに、「インマヌエル;神は私たちと共におられる」ということが実現されました。使徒パウロが、フィリピの教会への手紙に、こう書いています。「主イエスは、ご自分を無にして、僕の身分になられたのです」。つまり、神の子であるキリストは、「私たちをどれほど愛して、大切にしてくださったのか。また、私たちを救うために、どれほどご自分を犠牲にしてくださったのか」ということです。
主の洗礼の出来事について知っておくべき重要な点は、イエス様の存在はある意味で純粋な真珠のようです。純粋な真珠は汚れた泥の中に投げ込まれても、輝きを保ち、変色することはありません。同様に、イエスご自身も世の罪の泥の中に身を置かれても、神の子としての神性を失うことはなく、汚すこともありません。
最後に、イエスの洗礼の時に、神様は、「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」と天から宣言されました。実は、私たちも洗礼を受けた時に、「あなたは神の相応しい子となり、キリストの教会の一員となった」と神様は司祭を通して宣言してくださいました。どうか、そのお恵みをいつも大切にして、最後まで守り続けますように。アーメン。
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