メッセージ - C年 年間

私たちはだれでも、自分の歩みの指針として、あるいは弱く絶望的なときに力を与えてくれるエネルギーとして、人生のモットーや原動力となる言葉を持っているではないでしょうか。昨年、司祭に叙階されたとき、私はIn Verbo Tuo Laxabo Rete 「御言葉にしがって、網を降ろします」という今日の福音の中からの言葉を取り上げ、司祭としてのこれからの人生のモットーを選びました。このモットーから、私は自分の人生や召命にどんな困難があろうとも、神の言葉を信じて従うことを学んでいこうと思っています。もちろん、このモットーを選んだのには理由があります。ご存知の方も多いと思いますが、私は漁師の息子で、幼少期は父と漁をして過ごしました。私は海から人生の哲学的な意味について多くを教えてもらいました。人生はある意味で海のようなものです。穏やかなときもあれば、波立つときもります。喜びもあれば悲しみもあり、成功もあれば失敗もあります。中でも失敗に関して父は、よく次のようにアドバイスをしてくれました。「失敗は人生の終わりではなく、成功の出発点だ。最も大切なことは、最後まで戦い続け、決してあきらめないことだ。人生のあらゆる困難の中で、常に神に頼ることだ」と。これを私は今までの人生の中で思い起こし、従っています。では、私たちはどうでしょうか?

先ほど読まれた朗読では、「従順」について深く描かれています。第一朗読のイザヤの預言では、預言者イザヤが神の口寄せ人として召されたことが述べられています。「私はここにおります。私を遣わしてください」と。これは、神の御心に対するイザヤの服従の表現です。なぜなら彼は、自分を召してくださる神は、人間のあらゆる弱さを完成してくださるに違いないと信じているからです。 第二朗読のコリントの信徒への手紙の中で、パウロは自らが福音の告げ知らせる者としての召されていることを強調しています。それは彼の偉大さのためではなく、彼が神から受けた恵みのためです。そして今日の福音書で、ルカは最初の弟子が漁師として召されたことを紹介しています。船乗りであったペトロは、漁で何度も失敗しながらも神の言葉を信じて従った後、イエスから大きな報いを与えられました。ペトロは、「御言葉ですから、網を降ろしてみましょう」といいました。これはどういうことでしょうか。これが、神の御心に耳を傾け、実行しようとしたペテロの態度ではないかと思います。この従順さが、やがてペテロの人生に変化をもたらしました。前の晩の失敗による失望、苛立ち、怒りはすべて報われ、非常に豊かにさえなりました。

今日の福音の御言葉を通して私たちはペテロの信仰に倣うように教えられています。私たちは、神のすべての言葉に心を開き、神の御言葉を通して神から教えられたすべてのことに従い、忠実に実行するように招かれています。こうして、永遠の幸福が私たちの人生の一部となるのです。仕事や召命において多くの失敗を経験しても、決して絶望せず、あきらめず、むしろ何度でもやり直せるように心を開いてください。「御言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペテロの信仰が、私たちに神が私たちを決して失敗させたり、失望に沈ませたりということはないという希望を再び燃え立たせてくれますように。やがて神が私たちの人生に最良のものを与えてくださると信じ続ける限り、神は私たちに何が必要かを知っておられます。神が私たちの人生に豊かな祝福を与えてくださるよう、神への絶対的信頼を失わず、心を開いて従順の恵みを願い求めましょう。