メッセージ - C年 年間 |
「相互愛」とは私達人間にとって永遠のテーマだと思います。キリスト教の最も基本的な教えにもなります。この「相互愛」は、抽象的な感情にあるのではなく、具体的な行動の中にあるのです。愛がもたらす良い業にはいろいろな表現力がありますが、一番大きいのは「赦すことだ」と思います。つまり、愛し合うための鍵は「赦し」ということです。要するに、「愛し合うこと」とは「赦し合うこと」です。言い換えると、「赦し合うことは最高の愛の表現」と言っても過言ではないでしょう。
皆さん、赦しの一つの方法は、相手を「敵」として見るのではなく、「友」として見ることです。イエスは、十字架上に付けられた時、自分を殺そうとしている人々に向って、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか、自分たちでもわからない」と祈られました。ここで、主イエスが十字架の元にいる兵士たちの行為を「認める」とか、「水に流す」とか、「なかったようにした」という意味ではありません。主イエスは、相手の事を「敵」として見ているのではなく、「友」として見ているのです。そのような「心の目」で見ているから、目の前にいる「友」が罪の暗闇に滅ぼしてしまわないよう、そして、友の心や魂を磨くため、また、自らから回心するように、イエスは十字架上から、「真の愛である赦し」を与えてくださいました。
きょうの福音には主イエスは、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。」とおっしゃいました。つまり、主イエスは「愛と赦し」はキリスト者としてのアイデンティティーであり、人生の最も大事な支えであることを教えてくださいました。
皆さん、人を赦すことには非常に困難ですが、不可能ではありません。主イエスが、真の愛である赦しをお示しになったのは、「神殿」という「快適な空間」からではなく、「十字架上」という「痛みや苦しみの所」からです。これほどまでに、大きな愛で赦しを与え続けてくださったイエスキリストのように、私たちもまた、他人にも忍耐強く、赦しの心を持つべきだということです。
皆さん、「赦し」は、「難しい」が、「美しい」。「赦し」は、「辛い」。しかし「報い」がついている。「赦し」は、「苦しい」が、そこに「救い」がある。どうか、「愛を持って、互いに赦し合いましょう」。アーメン。
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