メッセージ - C年 四旬節 |
今日の福音朗読の箇所は、もちろん誰もが知っている有名な放蕩息子のたとえ話です。このお話の中で、放蕩の限りを尽くした弟息子が父親のもとに帰ろう、と決心したとき、彼は心から生き方を改めたわけではありませんでした。すべてを失い、飢え、これからどう生きていったらいいかわからないとき、思い浮かんだのは父親でした。父親を捨て顔向けできないことをしてきたけれども、それでも「父親のところならば大丈夫だ」「雇い人としてでも受け入れてもらえるだろう」という思いだけで父親のもとに帰りました。何の罪滅ぼしもできない惨めな姿をさらしてでも、恥ずかしい思いをしながらでも、父を信頼していました。
私たちの回心や立ち返りも、一つ一つの細かい行動を反省して直し、欠点をすべてなくす、ということではありません。自分の良い所も悪い所も、感謝も喜びも、悲しみも不安も怒りも、ありのまま誠実に神に向かうことです。私たちは、自分でも目を背けたくなるような自分自身の欠点を、罪を、卑しさや汚らしさを認めて、神の前にさらけ出して見せることができるでしょうか。自分が悪かったことを素直に認められるでしょうか。禁断の実を食べた後に神の顔を避けて隠れたアダムや、献げ物が神に受け入れられずに怒って顔を伏せたカインのようになっていないでしょうか。
私たちは自分自身と、周りの人と、そして神とまっすぐ誠実に向き合うように招かれています。たとえ話の中で、父親は兄息子の真面目さを評価してはいますが、同時にこの兄息子が父親である自分に対して、そして弟に対してまっすぐ向き合おうとせず、顔を合わせようとせず、背を向けていることに心を痛めています。
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