釈義 - B年 待降節

 

第一朗読(イザヤの預言40・1-5,9-11)では、バビロン捕囚にあるイスラエルの民に、慰めよ、慰めよ、と捕囚からの解放がよい知らせ(エウアンゲリオン)として呼びかけられ、語りかけられる。何故それが良い知らせになるのか、それは神に従うことを妨げるすべての囚われからの解放だからである。そのとき、主なる神が力を帯びて来られ、み腕をもって統治される。その主なる神が治められる、神の国では、使徒ペトロが、第二朗読(2ペトロ3・8-14)で述べているように、一日は千年のようで、千年は一日のようである。その完成と実現の日はいつ来るかは神以外の誰も分からない。しかし、その日は神の約束に従って必ず来るのであり、わたしたちは、神に信頼して、それを待ち望む。福音書(マルコ1・1-8)においては、主イエスがその良い知らせ(エウアンゲリオン)を自らの生涯の活動(教えと癒し)と受難、十字架上の死、復活等を通して告げられ始める。イエスを駆り立て、動かしたその霊と父なる神の霊が、信ずるわたしたちをも生かし、働きかけてくださる。