メッセージ - B年 四旬節

テーマ:「ユダヤ人の王、万歳」 (マコ15,18)

典礼歴は枝の主日を受難の主日に合わせて記念します。「主のエルサレム入城」の典礼の中で、過越祭のためにエルサレムに巡礼して来たキリストが、王様のように迎え入れられ、「ホサナ、主の名によって来られた方に祝福がありますように」(マルコ11,9)と人々は叫んで、ヤシの木の枝を手にかざしてキリストを誉め讃えていました。御ミサ中に「主イエス・キリストの受難」の朗読があります。キリストはその五日後、逮捕され、ローマ兵士によって茨の冠をかぶされ、皮肉的に「ユダヤ人の王、万歳」と言われて侮辱されました。この日々に、時間と空間の隔たりを無くして、2千年前のエルサレムで起こった出来事に参加したら、私達はキリストに対してどんな態度を取ったことでしょうか。

もし、私達が、流行に合わせて人をアイドルとして拝んだり、人の機嫌を取って一緒に悪口を言ったり、人を一緒いじめたり、皆がそうするから自分もするという生活を送るなら、キリストの時代に、エルサレム入城した時にキリストを「ホサナ」で迎え入れられ、逮捕された時にキリストを知らないと言って、兵士たちと一緒に茨の冠りを編んでキリストを嘲り、総督ピラトの前に、「キリストを十字架に付けろう」と叫んだに違いありません。だから、2千年前の人々だけは、キリストの死について責任があるわけではなく、私達の真理のない罪深い生き方はキリストを十字架に付けたのです。

ローマ総督ピラトは、「真理とは何か」とキリストに聞きました。真理に基づいて生きることがなかったために、キリストに死の宣告を与えました。キリストは、真理について証しするために来たと言います。時、状況、流行、人の評価関係なく、また、「ユダヤ人の王万歳」、「ホサナ」、「十字架に付けろう」などと、どんなことを言われても、キリストは変わることはありません。その愛もゆるぎないものです。キリストのような人になるならば、神様に無条件に愛されていることを悟り、初めて自分らしい自分を見出し、神と人を愛するようになることでしょう。