メッセージ - B年 年間

「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」

人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」マルコ 7:6-7

御ミサの最中、また祈る時に「心が散る」という悩みを持つ信者が大勢います。こういう信者の祈りが確かに不完全だけど、これを自分の悩みにするから彼等は立派な信者だと思います。むしろ、教会の中でそれを自分の悩みとしない信者の方が心配でしょう。彼らは、御ミサが献げられる時に教会敷地にさえ現れたら、信者としての務めを果たして天国に入ると思い込んでいます。ある者は、御ミサに遅れたり、聖堂の後ろに立って聖歌も歌わずに消極的に参加したりして、携帯電話着信が鳴り出したら直ぐ聖堂を出て長々と話したりします。彼等は自分が忙しいにも関わらず犠牲して御ミサに与るから天に報いがたくさんあると思い込んでいます。

教会で熱心な信者だと勘違いして思われる他の方は、聖堂に入ってお祈りを捧げる余裕はありません。彼等は、教会で行われる様々な委員会、活動会、食事会や踊りなどの趣味のために熱心に準備して大変忙しくしています。彼らの起こした行事は、教会議事録に残っているから、年毎よりいい成績を残して続けるために、教会共同体は様々な運動にまきこまれて、奉仕に覆われているようになります。もはや御ミサに与る時間がなく、世俗的な活動が優先され、意見や信者の間に権力の争い、悪口、妬み、家庭生活までに悪い影響を及ぼすのは、まれではありません。熱心に御ミサに与る人は、怠惰な人だと見なされているようになります。

福音の中でキリストは、2千年前に神様の名を利用して、自分の決まりや世俗的な習慣を厳しく守らせていたユダヤ人に対して、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」と言われました。今わたし達の信仰生活を見て、イエス様は、同じようなことを言われるのではないでしょうか。

神様が私達にどんな心を求めているかを問い質す必要があります。福音によりますと、それは、キリストが神様を愛したように、キリスト者は、イエスの御心を自分の心に抱き、祈りの内に神様との親しい交わりを通して、秘跡の内に神様と一つになる喜びを味わう人です。そうすれば、教会共同体が初めて、清い心を持って兄弟愛を育み、あらゆる交わりや活動を御心に適うものとなり、すべては神様の御栄のためになります。