メッセージ - B年 年間

「神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」イザ 35:4-6

誰かのことが好きになれば、この人を愛するようになったと考える人、要するに「好むこと」と「愛すること」が同じであると思う人が大勢いるようです。

考えてみれば、誰かのことが「好きだ」と言う時、私たちは自分の気持ちを表しているだけで、この人と一緒にいる時、喜びや安心感などのような益を得ていると言うだけではないでしょうか。その時私たちは、相手中心ではなく、自己中心に考え、相手の益ではなく、自分の益を基準にしています。そうして、この関係を「愛」と名付けるならば、相手が変わるために、または、自分の好みや欲求が変わるために相手と一緒にいるのが楽しくなくなれば、つまりこの関係からもはや何の益も得られなくなれば、「愛が消えた」と言うでしょう。

本当の愛に生きたイエスが示した通り、愛するとは、相手に自分の欲求を満たしてもらったり、楽しませてもらったりすることではありません。必要に応じて自分の楽しみ、自分の都合や好みを犠牲にしながらも、相手の真の善のために全力を尽くして、相手が自分の能力を発揮し、より良い人間になるように、相手を守ったり、支えたりすることこそ真の愛なのです。

誰かのことが好きになるというのは、決して悪いことではありません。時にそれは本当の愛の始まりなのです。しかし、好きになったことによって相手と結ばれた関係が愛に成るために、自分が相手の好きなところ、つまり自分のために利用できそうなところに留まるのではなく、相手のことをますます深く、全面的に知るように努力しながら、相手の成長やいろいろな可能性の実現を求めて、自分のことよりも、相手の必要性や真の善を優先するように努める必要があります。相手も私たちに対して同じ態度をとるようになるならば、その時初めて二人の関係が相互の愛になったと言えるのです。