メッセージ - B年 年間

「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(マルコ1244

神殿の賽銭箱に献金する様子を見ておられたイエス様は、金持ちが生活費の余ったお金を入れていたが、貧しい寡婦が僅かな献金(レプトン銅貨2枚=約80円)をささげたにもかかわらず、それが生活費全部だったので、神の前に、誰よりもたくさん入れたことになっていると仰いました。

世間の中で寡婦の寛大さは、無責任的で、無謀なものだと見なされます。何故なら、自分の生活を維持する責任の無さが目につくからです。また、富に満ち、黄金や彫刻に溢れるエルサレムの見事な神殿のためにこの寡婦の銅貨二枚は海の中の一滴に過ぎず、飢える人にささげる方がまだ道理に適うと思われます。

しかし、イエス様は寡婦の献金を神様の目で見て、この例を用いて神様の前に何が大事であるかを教えてくださいます。この寡婦の行いの中に神様に対しての信頼と信仰について学ぶべきものがあります。

1.    寡婦は、自分の命よりも神自身の方が大切で、最大の価値を持っていると信じていた。僅かな金のために誉れを受けなくても、また神様のために惨めな思いをしても良い程の謙虚さを持っていたこと。

2.    寡婦は、自分がささげるものの価値を考えることなく、神殿で神様に出会うこと、祈りをささげて神様を誉め讃えることを最大の価値と見なしていたこと。

3.    寡婦は、持っているものも自分の命も、神様から頂いたものであると認め、その小さな献金が自分自身を感謝のいけにえとして神様に献げるしるしとした。それは、神様に対する無限の愛と信頼の模範であること。

私たちもイエス様の視点から福音の寡婦の信じる心を見て、自分たちの心に照らし合わせる必要がります。物と出来事に溢れている現代に様々な価値観がありますが、神様は私たちの一人ひとりにとってどれぐらい大切でしょうか。私たちは度々、「神様は一番大事だ」と言うけど、実は、仕事ばかりでなく、クラブや趣味などを優先にして、神様のために余ったものしかない信仰生活が殆どです。忙しい社会に生きる私たちに、キリストは、福音の寡婦の信仰を模範として挙げ、神様に対する私たちの本心を問いかけてくださいます。