釈義 - C年 祭祝日

第一朗読:イザヤ40,1-5.9-11

第一朗読の言葉は第二イザヤの「イスラエルへの慰めの言葉」と呼ばれる章(イザヤ40-55)から取った部分である。この言葉の歴史的な背景にはバビロニア捕囚の終末の時期ということがある。イザヤにとってバビロニア捕囚は神から受けた正しい罰であった(40,1-2)。この罰の目的は、ユダヤ人たちが罪の道を歩むことをやめ、心を改めて神のみ旨を行う道に戻るということであった。この時期は「神の道を整える」と呼ばれた時期である(40,3-4)。神の道を整える時期の目的は神の栄光が現れるということである(40,5)。この現れた神の栄光とはイスラエルを救うことである(40,10)。キリスト教の解釈では、10行の言葉はイエスに関連する。

第二朗読:テトス2,11-14;3,4-7

第二朗読の言葉は、キリスト者がこの世を旅する時にどのような生活をするべきかということについて説明するものである(2,11-12)。この論理的な教えの元は二つの重要な神学的な教えである。まず、終末論的な(2,13)教えとして、キリスト者の希望を示す。次に、救済論的な(2、13-14;3、3-6)教えとして、人間に救い主がイエスであるということを表している。神のいつくしみと人への愛の徴はイエスの行いである。

福音朗読:ルカ3,15-16.21-22

洗礼者ヨハネは神の道を整えるために活動をした。彼はメシアではなく、荒野で叫ぶ者であった。彼の水による洗礼は罪を許すだけのためであり、人間を救うことは出来ない。許された人はこの世で犯した自分の罪に対して罰を受けないという安心を感じた。しかし、その人は再び罪を犯すので救われることは出来ない。モーセの律法を守らないからである。メシアとしてイエスは聖霊と火の洗礼を授ける。聖霊とは神のみ旨を行うために必要な力である。火とは人間の熱心な心である。罪から開放されるためには、神の力(業)だけで足りる。つまり、人は自分の力で罪から開放させることはできない。しかし、神からただで貰った聖霊の力の内に生きている人は罪を犯さないことが出来る。それには人のほうから熱心に聖霊の力と協力することが必要である。いずれも、人間が神の子イエスからただで貰ったものである。