メッセージ - C年 年間

「この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(ルカ4,21

 

イエス・キリストは育った町ナザレにお帰りになって、神の言葉を伝えていたが、ナザレ人はイエス様の説教を聞き入れられず、憤慨して彼を山の崖から突き落とそうとしました。なぜ、ナザレの人々はこのような心を持つようなったでしょうか。

「この人はヨセフの子ではないか」と言っていたナザレの人々は、イエス様を神の子としてではなく、神から遣わされた方としてでもなく、自分たちが育てた「息子」として迎えたということを証明しています。「医者よ、自分自身を治せ」という表現は、ナザレの人々がキリストを裏切り者として見なしていたということを語ります。イエス様が病気を癒す力を持っていたなら、先に自分の故郷ナザレの病人を癒すべきだったと思い込んでいたからです。もし、イエス様がナザレの人々に誉め言葉ばかり話したり、お世話になったことを感謝したり、どの町よりもたくさんの奇跡を行ったりしたならば、彼らはイエス様のことを自分の誇りにして、あつく歓迎したに違いありません。

しかし、イエス様は預言者のように神様の威厳をもって福音を宣べ伝え、み言葉を信じて悔い改めることを条件にして病人を癒してくださいました。御自分について記されているイザヤの預言が、「きょう、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエス様は知らせています。しかし、ナザレの人々は生き方を変えたくなかったから、イエス様を信じようとしなかったのです。

私たちは、御ミサの中で、ナザレ人のような心でみ言葉を聞かないように注意しなければなりません。御ミサの神の言葉の祭儀の中にある聖書朗読と説教は、神体験の古い話や司祭が考えていることだけではありません。むしろその時、神御自身が私たちの一人ひとりに語りかけています。キリストが今日の福音の中で強調しましたように、私たちはそれを耳にしている時にその言葉が実現し、キリスト自身も現存します。み言葉に応えて生きたくないならば、私たちもナザレの人々のように、心の空洞が作る「崖」からキリストを突き落とそうとしているかもしれません。