釈義 - C年 四旬節 |
第一朗読 出エジプト3,1-8a. 13-15
神がご自身をモーセに現わすまで、ユダヤ人たちは彼らの先祖たち(アブラム、イサク、ヤコブ)が神を信じていたということだけを知っていった。モーセが尋ねた質問には非常に深い意味がある。神の名は何かという質問の事実上の問いは、先祖たちの神がどんな神だったのかということと、本当にその神が存在するのかということである。ヤコブの死後四百年後や、奴隷の生活を強いられた時など、この質問がユダヤ人にとって大問題となった。モーセに与えられた答えは、「わたしはある」という表現である。その意味は、神が昔の方ではなく現在も存在する方であり、かつてユダヤ人の先祖を救われた方だからこそ今もユダヤ人を救われる方だということである。神を信じている人は神の業を見て神を知ることになる。
第二朗読:一コリント10,1-6.10-12
第二朗読の言葉はキリスト者に対する一つの厳しい教えである。それは、キリスト者になることだけでは足りないということである。キリスト者になった人にはキリスト者らしい信仰の道を歩む義務がある。この教えを証するのは、モーセの時期に神に反対するユダヤ人に対してされたことである。
福音朗読:ルカ13,1-9
福音書の言葉によれば、すべての人々は回心する必要がある。回心というのは神の御旨に反対する自分の考え方や生き方を変えることである。それをしていない人は突然に亡くなる。「突然」とは、準備が出来なかった人のことである。ピラトに塔で殺された人々は突然に亡くなったので罪のうちに亡くなった。だから彼らの将来は不安である。
イエスの言葉によれば、神はすべての人に回心するための十分な時間と恵みを与えられる。
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