メッセージ - C年 年間

 

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18,14

 

神殿に上ったファリサイ派の人と徴税人は神様に祈りました。ファリサイ派の人は、祈りのプロフェショナルであり、神の恵みをたくさん頂いたことに気付き、自分が他の人よりも偉くて義人であり、定めた献金をささげ、断食を行い、美しい表現をもって神様に感謝の祈りをささげました。ところで、徴税人は自分の罪深さの故に神様に何も言えない状態の中で、神殿の後ろに立って、ただ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈っていたのです。イエス様は、神様が罪深い徴税人の祈りを聴き入れて憐れみ、義人にされましたが、正しい人と見做されたファリサイ派の人の祈りを聞き入れられなかったと言われました。

神様は私たちの祈りを聴き入れられているでしょうか?

おそらく、人によって程度が違いますが、私たちの祈りは、ファリサイ派の人と徴税人の両面があると思います。善行を行った場合、ファリサイ派のように自分の正しさをうぬぼれて他人を見下している時もあれば、徴税人のように謙遜さを保つ時もあります。また、罪を犯した場合、私たちにはファリサイ派のように自分の罪深さを認めない時もあれば、徴税人のように罪を告白して憐れみを乞い求める時もあります。

ファリサイ派の人は、神様に対して見せかけの感謝をささげます。彼は、掟と義務を良く知って規則通りに行い、祈る習慣があって美辞麗句をならべて神様に話しかけるのが上手でした。しかし。その心は違っていました。彼は、神様を誉めることではなく、うぬぼれて先に自分を誉め、隣人のために祈るのではなく、徴税人を見下して神様に悪口を言いました。しかし、徴税人は、祈りの中で、自慢することも、隣人の悪口も言うこともなく、ただ、神様の憐れみに自分を委ねたのです。換言すれば、ファリサイ派の祈りの中で神様と隣人に対する愛がなく、また、神様にその愛を願うこともありませんでした。徴税人は、愛が足りなくて罪を犯しましたが、神様の愛に自分を委ねて、神様が自分の内に愛の業を完成させることを望んでいました。

私たちのすべての祈りは、キリストが教えてくださった「主の祈り」の精神を持たなければなりません。神様を父と呼び、愛と親密の関係を作り上げ、謙遜に神の名を誉め、いつも御旨を求める必要があります。その後、自分のことよりも、皆が兄弟姉妹として、生かされるように恵みを願い、悪を退け、互いに赦しあって、神様の愛の内に生きることを願うべきと思われます。