メッセージ - A年 復活節

エマオへ臨んでいた二人の弟子の信仰は、私たちの信仰の持ち方とたくさんの共通点があると思います。二人は、キリストが救い主であると信じてイエス様の弟子となり、聖書から神の言葉を知るようになり、キリストから神の国について、また、御自身の死と復活について教えを受けた弟子たちでした。キリストが命を献げる程に私たちを愛してくださいました。十字架上で息を引き取られたことを、二人は歴史的な事実として受け止めたが、キリストの復活を理解できずに、比喩的な意味を持つ言葉として考えたことでしょう。周の初めの日にキリストの墓が空だったこと、キリストがご復活なさったと婦人たちに伝える天使たちの出来事を現実だと思わず、彼らにとってキリストの死を悲しむ涙と救い主を失った絶望は現実でした。

洗礼を受けた私たちは、福音の弟子と同じような救い主キリストに心の中で出会う喜びの事実があったと思います。しかし、世の中にある愛の不足、争いなどの悪は、私たちの心からキリストを奪うことがあります。キリストは罪と死に打ち勝ったことは、非現実な話しに聞こえます。世の悪の方が強いからと思いこんで信仰を失ったりします。しかし、復活したキリストは、主の道から離れて行く私たちをあきらめません。主の道を離れてエマオへ歩んだ二人の弟子の道にキリストが現れたように、私たちの道にも現れ、共に歩きだしたりします。肝心なポイントは二つです。

一つは、いつ、我らは自分の人生の道の中で、復活したキリスト自身が歩んでいることに気づくかどうかということです。

もう一つは、キリストに気付いたら、我々がキリストの示された道に立ち帰る決心するかどうかということです。

エマオの道と同じように私たちは信仰の道を歩みますが、キリストは人知を遥かに超えた存在ですから、気付くのは難しいです。それにもかかわらず、キリストはエマオの弟子のように私たちを助け、励まし、教え、導き、諭すのです。二人はキリストの言葉を信じたが、キリスト自身に気付きませんでした。でも、その方に憧れて自分の場所に一緒に泊るように招いたのです。そこで、キリストは自分を表現するために最後の晩餐を再現しました。すなわち、「食事の席に着き」、「パンを取り」、「賛美の祈りを唱え」、「パンを裂いて」、弟子たちに「お渡しになった」ということを見た二人の弟子はイエス様だと分かりました。キリストを見出すために、イエス様の顔や姿は、意味がないのでキリストは裂くパンの内にご自分の存在を秘められました。

御ミサの時に司祭の手を通して再現された最後の晩餐の時に、我らの一人ひとり、キリストの現存を見出しているでしょうか。復活したキリストに出会った二人は、エルサレムに戻って、キリストの復活について証しし、キリストの示した救いの道を歩み出したのです。復活したキリストの体を頂く私たちは、キリストについて証しし、人と共に歩み、人と「パン」を分かち合ってキリストについて証しするでしょうか。キリストと一致して、罪を捨てキリストの復活の喜びに人生を変えた信者たちはキリストの復活の現実を証しています。私たちもその一人になったでしょうか。