メッセージ - B年 四旬節

 

イエスは言われた。「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」と。

 

キリストは過越祭のためにエルサレムに昇って神殿の境内で牛や羊などを売ったりする人々を見て、鞭を作って動物を追い出してお金を撒き散らし、神殿から市場にすることをお許しになりませんでした。この神殿が御父の家だから、同時にその神の子イエスのものにも成っています。御自分の「家」に邪魔なモノを外に出すのは、正当なことです。教会はこの福音の出来事を「キリストによる神殿の清め」と言います。

本来、神殿は神様のために聖別されたもので、そこに入る人がお祈りの内に神様に出会って、すべての汚れから清めるための所でした。罪人は神様の赦しを信じて、罪の償いとして持っているものの中で一番良い物をささげ、又神様にいけにえを献げていました。しかし、エルサレム入城したイエス様は違う現実が見えました。祈りと神様との出会いの妨げになっていたのは、お金で買われていたいけにえの羊や牛などでした。結局、人々がお金で自分の罪の赦しを買おうとし、家畜を飼っていた人々は神殿の境内で商売し、献げたいけにえで神殿に仕えていた祭司とファリサイ派の人々は富を蓄えていました。

キリストは、旧約時代の神殿を清めようとしたが、ユダヤ人たちの指導者たちはお断りしました。この時点で、エルサレムの神殿が救いの場としての役目は終わりました。キリストは、この神殿を壊しても良いと言いました。キリストは、罪の赦しのために自分の体をいけにえとして十字架上で献げて、三日目に復活すると預言します。新しい神殿は、キリストの復活の体です。キリストは最後の晩餐の時に弟子に「これを取って食べなさい。」と言って、世の罪の赦しと永遠の命を得るために、私たちにキリストの御体を頂く必要があると教えてくださいました。これによって、私たち自身(教会)が神の神殿と成るのです。

神様が私たちを御自分の似姿にお造りになり、こうして私たちは元々神様のものです。神様は私たちに心と人生を、自分たちの所有として与えてくださいました。自分たちの心と人生に神様のために場がなく、キリストを招かないならば、キリストは紳士で、私たちの自由意志を尊重しておられるから無理には入りません。ところで、キリストがこの世に来たのは、人々を罪の汚れから清めるためです。キリストは地上を歩き廻る時に、「あなたの罪が赦された。」と言われて、ハンセン病の人を清くし、死者を甦らせ、悪霊を追い払いました。キリストの服に触るだけで清くなった人も大勢いました。

ところで、私たちの心が清められていますか。私たちの「心の神殿」にキリストが生きておられますか。もし、その心は「市場」になっているならば、キリストを呼んでください。私たちの自我と傲慢の「シンデン」を十字架上で御自分の内に壊して、「三日」の内に御自分の御体の「神殿」に建て直します。したがって、私たちの救いのために、聖なる過越の三日間(聖木・聖金・聖土曜日)のキリストの救いの神秘に与ることは、如何に大切であるかを、本日の福音の中で教えられるものがあります。キリストの内に示された神の愛に、自分の心の扉を広く開け、キリストは私たちの内に、私たちはキリストの内に生きることができますように。