聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム |
序
前回の講話で、神様はイエス・キリストの内に御自身を人間にお献げになった神秘について考察を致しました。御子キリストは人類を救うために人間となってこの世に御生れになり、罪を除いては、私たちと同じような生活をお送りになりました。しかし、人間の罪深さのために御子は、この世に生まれる時から死に至るまで多くの試練に遭遇され、最後に十字架におつけになられるためにローマ総督ポンティオ・ピラトに引き渡され、多くの苦しみを受けられました。ところで、イエス様は、人間の罪から発出する悪に負けることなく、むしろ、神様の愛が足りなかった所に慈しみを示し、病人を癒し、死者を甦らせ、悪霊を追い払い、神の国の福音を宣べ伝え、赦しをもって悪に打ち勝つ模範を示してくださいました。
神様が世の初めからお定めになった救いの営みを成就するために、キリストは死に至るまで御父に従順でした。この講座では、キリストの死による世の罪の贖いと十字架による人間の救いの神秘を解説することに致します。それは、使徒信条の「十字架につけられて死に葬られ、陰府(よみ)に下(った...主イエス・キリストを信じます。)」という節の解釈となります。
1.死に至るまでのキリストの最大の愛
イエス・キリストが成し遂げようとした十字架の死による救いは、神様の限りない愛のしるしであると弟子たちに説明されました。そして、すべての人がその救いに与るために、キリストが生きておられた真の愛の手本として与え、我々の各自が同じ愛を自分の生活の中で生かしていくように招いてくださいました。したがって、イエス様は、最後の晩餐の席に着いた時に、先に自分の弟子たちの足を洗う僕のような奉仕をなさいました。使徒ヨハネは、イエスが、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨヘネ13章1b節)から、そうなさったと記しました。そこで、イエス様は弟子たちに次のことを教えてくださいました。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15章9~14節)
多くの人や弟子から裏切られ、特に使徒ユダの裏切りや使徒ペトロの離反などを予告して、十字架の死を迎えようとされたにもかかわらず、イエス様は、上記の福音箇所にあるように、御自身の心が喜びに満たされ、御自分の喜びを弟子たちの喜びにして上げたいほどでした。なぜなら、キリストの愛は、人間の罪や裏切り、死ぬ恐れなどよりも人智遥かに超えて偉大だからです。イエス様は、御父の愛に代るものがないことを証し、その愛のゆえに、御父の御心を行って全世界を救うために、御自分の命を献げることも最大な喜びとしました。
イエス・キリストは、弟子たちに他人のために命を献げる最大の愛を、十字架の死をとおして示してくださいました。イエス様は、弟子たちを初め、すべての人々がこの愛を知って心に留め、それを生きる喜びとすることを望んでおられます。その愛を生きるとは、必ずしも自分の命を失うことでもなく、むしろ自我を捨て、友(他人)のために生きることにあります。この愛に到達することができる人は、キリストの十字架による救いに与る者となります。キリストは、私たちの救いを力強く望んでおられるから、御自身が自分の弟子たちを愛しておられたように、私たちも互いに愛し合うことを新しい掟として与えてくださいました。
2.キリストの死を信じてきた犯罪人の一人と百人隊長の証し
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』 人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』 すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』 そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」(ルカ23章33~47節)
以上の福音箇所は、十字架につけられたキリストを信じる二人の証しによって特徴付けられます。その一人は、同じく十字架につけられた犯罪人の一人です。彼は、キリストが無罪であるにも関わらず、「十字架につけろ!」と叫んだ群衆を、不正な死刑の宣告をくだした総督ピラトを、また議員たちの嘲笑い、兵士たちの侮辱、他の犯罪人の罵りを受けたにしても、皆を心から赦し、彼らのために御父にお祈りをささげる程の不動の愛を証ししたことを心に留めたと思われます。キリストの内に神様の愛の勝利を認めたこの犯罪人は、キリストが御国で君臨することになったら、自分を救ってくださるように願いました。犯罪人にも、間もない救いを約束したイエス様は、どんな罪人であろうと、悔い改めて十字架につけられたキリストに望みをかけるなら、救われると宣言されたように思われます。
ローマ役員の百人隊長も十字架上の赦しと御自分の命を御父に委ねて最期まで地上で救いを実現するキリストの死を見て、これこそすべての悪に対する勝利であると認めて、神様を賛美しました。キリストの十字架の勝利を信じた百人隊長は、十字架を崇敬する教会の信仰の中心的な側面となりました。
3.十字架上のキリストの勝利
ローマ総督ピラトは、キリストを尋問して彼の無罪を知っていました。即ち、イエスが建設しようとしていた国は、この世に属していない「神の国」であることが分かりました (ヨヘネ18章36節) 。キリストがローマ帝国に対しても、ユダヤの社会に対しても罪を犯したことがないので、総督ピラトは以下に記されているとおり、罪状書に、「ユダヤ人の王」と書くことにしました。
「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、『“ユダヤ人の王”と書かず、“この男は‘ユダヤ人の王’と自称した”と書いてください』と言った。しかし、ピラトは、『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた。兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、『これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう』と話し合った。それは、『彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる 愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19章19~27節)
十字架上のキリストの証しを仰ぎ見る教会は、総督ピラトの罪状書が御摂理の中で含まれていると信じ、十字架上の愛の勝利のためにキリストを真の王として拝み崇められます。自分の内にキリストの愛が勝っていると実感した十字架の下の四人は、最期まで勇敢に十字架の下に立ち、どんな力も、彼らをキリストから引き離すことができませんでした。それは、キリストを生んだ聖母マリア、キリストに最大に愛されたと確信していた使徒ヨハネ、汚れた霊から解放されたマグダラのマリアとクロパの妻マリアでした。十字架上のキリストの望みは、聖母マリアが弟子ヨハネを初め、御子を愛する全ての弟子の母となること、また、キリストを信じて愛するすべての人が御子キリストを生んで育てた聖母マリアを自分の母とすることです。そうすれば、この世の中で神様と人間は一つの家族となり、神の国も実現して行きます。
4.キリストの死によって成就された神の救いの計画
神の言葉である聖書全体の文脈の中で、キリストの死は、世の救いの業を妨げとなったのではなく、神様の救いの計画の成就であることが分かります。即ち、四つの福音書が紹介する御受難の経緯は、旧約聖書の預言どおりに成就されたことを伝えます。特に福音記者ヨハネは御受難が旧約の預言どおりの出来事であることを強調します。以下の引用の中でそれを明記致しました。
「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉【詩編22編15節】が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」【詩編69編21節】と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉【詩篇34編21節】が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』【ゼカリヤ12章10節】とも書いてある。」(ヨハネ19章28~37節)
教会は、これに基づき、キリストの御死去が様々な事情によっての不幸な結果ではなく、神様の御摂理にしたがっての救いの神秘であると信じます。初代教会が誕生の日、聖霊降臨の後、使徒ペトロが説教の中で、御受難が、「神がお定めになった計画により、あらかじめご存知の上」(使徒言行録2章23節)の出来事だったと言うわけです。そして、使徒パウロの手紙の中で、神様は、御自分の子をこの世に遣わし、彼が私たち罪人の連帯者となって「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまずに死に渡され、」(ローマ8章32節)、私たちが、「御子の死によって神と和解させて頂ける」(ローマ5章10節)ようになさったと述べています。
さらに、使徒ペトロは、「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは天地の創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終りの時代に、あなたがたのために現してくださいました。」(一ペトロ1章18~20節)と初代教会に解説し、原罪(太祖アダムの罪の結果)に続く人々のすべての罪の贖いとしてキリストが御自分の命を献げたことを宣べ伝えます。キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1章29節)という証言は、キリストが罪の赦しのために神様に献げるいけにえの小羊であることを促しています。キリスト自身も御自分について「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10章45節)と言われたわけですから、イエス様の御死去こそが、人類の罪を贖う真のいけにえであると、教会は信じています。
5.キリストが死に、葬られ、陰府に下った救いの業
「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。」(ルカ23章50~56節)
以上の福音箇所は、イエス・キリストが一人の人間として誠に死に、葬られたことを紹介します。キリストは、負わせられた人の罪を引き受けて、御自分の死によって滅ぼしました。創世記が伝える人間の死の原因である罪が十字架につけられて亡くなったなら、人間に永遠の命を迎える時が訪れたと言います。いわゆる、信じて御受難に与る人々は、キリスト共に自分の自我に死に、また、キリストの復活の命に与り、神の子どもに生まれ変わることに望みをかけます。
御子は、十字架上で息絶えた瞬間から御復活までの「三日間」、誠の人間として、その霊魂と肉体が分離した状態で誠に死をなられました。その間にキリストの霊魂は、既に死んで救いを待ち望む死者のもとに下りました。その場所は、神様のおられなかった「陰府(よみ)」(またシエオル、ハデス)と言います。キリストに先立って亡くなった死者が、原罪と個人の罪のために神様と共にいることができなかったが、御子は、御自分の死によって彼らを贖い、罪と死と悪魔に打ち勝った勝利者として、死者を救うために陰府に下り、救いに相応し人を義とされたのです。
その成就についてキリストは前もって次のように予告しました。
「 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
(ヨハネ5章24~25節)
結び
キリストの十字架の死による神様の救いの業は、キリストの御復活と密接に結ばれ、一つの過越の神秘であると教会は教えます。「死から命へ」と移るという「過越の神秘」を、次回の講話で紹介することになります。
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