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序.
「教会を信じる」とは、唯一の神である聖霊を信じる信仰箇条、「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、生徒の交わり、罪の赦し、体の復活、永遠のいのちを信じます。」の中の一節、「聖なる普遍の教会」を信じるという信仰告白です。換言すれば、教会が聖霊の被造物であり、聖霊の現存と働きの場であるから教会を信じることは、神様である聖霊を信じることになります。
1.教会の名称
初代教会は、御自身のことを、「エクレジア(召集、呼び出されたもの)」と「キュリアケー(主に属するもの)」という二つの用語をもって名付けました。
「エクレシア」は、教会が人間によるものではなく、神御自身が呼んでくださった集いであるというアイデンティティを現し、「キューリアケ」は、教会が人間の力によって存在し運営されている社会組織ではなく、キリストを御自身の主(キュロス)とし、御心に適う組織を持ちながら神様の所有であり、地上の次元を超える永遠の存在、キリストによって救われて聖とされた集いでです。旧約時代の預言者たちが、イスラエルの民の神様との関係を、神様が「夫」とイスラエルが「妻」と名付け、両者を「夫婦」で表現されています。この比喩的な表現を意識して、初代教会は、自分のことを、「花婿」キリストに属する「花嫁」として言い表しました。
2.「教会」の旧約時代の起源
1)神様に呼ばれた最初の人間
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちにあたえよう。」
(創世記1章27~29節)
初代教会の信者は、「世界は教会のために造られた。」と言いました。以上の創世記の第一創造物語(創世記1章)によりますと、神様は六日間で全世界を作り、最後にご自分に似せて象りとしてお造りになった人間にすべてをお与えになりました。人間は神様の造られたものであり、「神の似姿」として神様の愛の交わりに呼ばれ、多くの子孫に恵まれて自然界で神様の創造に参与するように呼ばれています。第二創造の物語(創世記2章)によりますと、神様が人間を造り、人間は楽園で神様との交わりの中で幸せに生き、天国の先取りを味わったのです。この太初物語の楽園の生活は、神様が永遠の昔からお考えになった神と人の交わりの教会の原点と理想の象徴でもあると言えます。
人間が神様のようになりたい程の傲慢によって犯した罪は、両者の関係を壊しました。これを象徴する人祖アダムとエヴァが犯した罪です。神様は、二人を交わりに呼んでくださいました。即ち、「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」(創世記3章9節)と。アダムは罪のために相応しくないと自覚し、「『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3章10節)と答えて交わりをお断りしました。お詫びもなく、罪の責任を認めようともしない人間は、自分で地上の楽園を終りにしました。ところで、「どこにいるのか」と人間を呼び出すという神様の行為は、「エクレジア(教会)」という未来の教会を呼び起こす声であるとも言えます。アダムとエヴァを罪に誘惑した悪魔に向って神様は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(創世記3章15節)と言われて、救い主の誕生を予告し、神と人との親密な関係が戻る計画を啓示されました。その結果として、救いの歴史が始まり、その救いはキリストの御死去と御復活によって成就されました。そして、教会の時代が始まりました。
2)アブラハムの召命
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記12章1~3節)
神様は、アブラハムを属していた故郷と家族から呼び出され、御自身に属すものとするためでした。その子孫も神様のものとするために、神様はアブラハムと契約を結ばれました。「主に属するもの」となるアブラハムの家は、「教会(キュリアケー)」の前兆となりました。神様が御計画なさった教会は、アブラハムの子孫に留まらず、彼の信仰によって、地上のすべての氏族に及ぶものであなければならないと約束してくださいました。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6節)という御言葉は、アブラハムが生きた信仰によって、信じるすべての人の父となったことを示しました。教会は代々にわたって、アブラハムのような信仰を求めています。
3)モーセ時代の神の民
(主は彼らに語りかけて言われた。)今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19章5~6節)
エジプトの奴隷から解放され、約束の地を目指して砂漠を渡っていたイスラエルの民は、神様によってシナイ山のふもとに呼ばれ、モーセの仲介によって「神の十戒」を受け入れて「契約」を結び、「神の民」となりました。イスラエルは、神の声を聞き従うことと契約を守ることの条件で神の民となり、教会の前兆(前印)となりました。しかし、イスラエルは、罪を犯して、神様との契約を破りましたから、何世紀にわたって多くの預言者たちは救い主の誕生によって、新しい契約が完成されると預言しました。
例えば、預言者エレミヤを通して、神様がキリストによって救われた神の民は次の通りとなることを教えてくださいました。「(主はこう言われる。)『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、』と主は言われる。『わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。』」(エレミヤの預言31章33-34節)と。それは、未来の教会の使命について述べられた御言葉であると言えます。
4)ダビデに約束された永遠の王国
「主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。(...)彼が過ちを犯すときは、わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。(...)あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」
(サムエル記下7章12~16節)
神様の幕屋をエルサレムの中心に置き、深い信仰と熱い愛をもって神様に忠実なものとなり、多くの詩編をもって神様の御業を賛美し、神殿も建てようとした王ダビデに神様が以上に記されている約束を与えました。ダビデの子孫に与えられる王座が永遠に続くことは、預言されたダビデの子イエス・キリストが御復活によって実現されました。こうして、未来の教会は、神の国(王国)と言われ、人間ではなく、神様の義と愛によって統治されることを促しています。
3.「神の国」の到来として創立される教会
「イエスは(洗礼を受けた後)、ガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」
(マルコによる福音1章14~15節)
キリストが宣べた伝えた福音とは、人間が罪のために神様から離れてしまいましたが、神様の愛は変わることなくいつも共にいることです。人となられた神の子キリストは、その目に見える表現です。人間の方から必要なのは、「悔い改め」であり、神様が人の心と人生を支配するために、罪を捨てて神様に立ち戻ることです。罪人が神ないがしろにして生きる世界に神様が君臨するようになることは、神の国の到来です。即ち、地上教会は、天国の先取りであり、人間が地上の生活を終わった後に天国に入ってから、天上で完成されます。
人間が神様を受け入れて救われるために、キリストは多くの例えを持って、神の国について語りました。度々、神の国は「種」に似ていると言います。神様はキリストを通して私たちに永遠の命を与えてくださいます。神側では我々の救いが実現されました。「種」の例えは、神様を信じることによって、私たちの内に神の命が成長し、人間は神の子どもになることを教えます。こうして、「教会」は、永遠の命の種を成長させる「神の畑」、「ぶどうの木」、「オリーブの木」などで表現されています。
そして、遊牧人のイスラエルに、イエス様は神の国を「羊の囲い(柵)」に例え、羊の命を守るために善き牧者となられました。そして、羊飼いが羊を牧場に導くように、キリストは先頭にたって、人を天国に導きます。したがって、教会は、「神の家」、「神の家族」、「私たちの母」と呼ばれ、聖霊の交わりの中で、信者たちは、神様を自分自身の父、キリストを自分の兄弟、聖母マリアを自分の母と致しました。
4.教会の創立者であるキリスト
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。 (マルコによる福音3章13~19節)
十二使徒に聖霊が注がれた時から教会の時代が始まります。したがって、教会は聖霊の被造物であると言います。聖霊に満たされた十二使徒が、神の子、キリストによって選ばれ、キリストから神の権能を受けて全世界に派遣されたので、教会の創立者は、キリストであると言います。使徒たちはキリストに属する者として、教会のモデルになります。イエス・キリストは、教会の頭です。キリストと一致して、教会は地上で悪霊を追い出し、キリストの権能を持って御言葉と秘跡に神の国を建設します。
キリストの権能を受けるとは、使徒ペトロのような信仰に基づくものであります。シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白した後に、イエスは言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイによる福音16章16-19節)と。キリストは使徒ペトロだけではなく、十二使徒がキリストと結ばれて救いの業を行うことができると約束し、権能を与えられました。
福音に基づくと、キリストは十二使徒に、洗礼によって教会のメンバーを増やし、罪の赦しと霊的な糧である御聖体という秘跡をキリストの名によって行う権能をお与えになりましたので、以下の福音箇所は、キリストが教会の創立者であることを証明します。
① 洗礼を授ける権能
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音28章19-20節)
② 罪を赦す権能
②だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音20章23節)
③ 御ミサを献げ、エウカリスチア(聖体の秘跡)を授ける権能
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカによる福音22章19節)
結び:
聖霊の被造物である教会にキリスト自身が御父と共に生きておられます。次の講話の中では、ニケア・コンスタンチノポール信条が信じるために紹介する唯一、聖、普遍、使徒的という教会の四つの特徴を中心にして紹介することになります。
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