聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

「聖書が教えるカテキズム」20165月の講話

天地創造の時から御父の御心の内に計画された教会は、御子イエス・キリストによって創立され、聖霊の注ぎによって地上で実現されました。イエス・キリスト御自身の言葉と使徒たちの教えに基づきますと、教会はただ一つであり、聖霊によって聖とされ、すべての人のために普遍であり、使徒たちが残した信仰を土台にして未来へと発展しています。したがって、ニケア・コンスタンチノポール信条は、わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。」と言って教会に対する信仰を宣言します。信仰宣言の原文によりますと、教会の特質の順番は、「一」、「聖」、「公(普遍)」、「使徒伝承」となります。教会が一つであると強調されています。

この講話は、教会の四つの特質、そして教会が持つ精神や特徴などを紹介します。

1.「一」である教会

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音17章21~23節)

 

以上の引用は、キリストが御受難を受ける前に、最後の晩餐の時に弟子たちの前に御父にささげられた祈りの一部です。キリストは弟子たちを始め、すべての信者の一致のために力強く御父に祈りました。弟子たちが福音宣教して誕生するすべての教会共同体は、キリストの内に完全に結ばれるためです。一つになる心は、キリストが最後の晩餐の時に制定された御聖体の秘跡の内に現しました。即ち、イエス様は一つのパンを取って、御自分の体に聖変化され、弟子たちに分け与えてくださいました。こうして、唯一の主、イエス・キリストは弟子たちの内に生きるようになって、彼らを御自分の内に一つにしてくださったのです。

多種のたまもの、様々な民族や文化、多様な任務や生活様式にある教会が自分の特質として一つであるとは、唯一の神にその源があり、唯一の教会の創立者主キリスト、地上に教会を誕生させ、満たして成長させる唯一の主なる聖霊によるものです。その結果として、教会は唯一の信仰宣言、唯一の洗礼、一つの礼拝をもって神様を賛美します。一致を完成させる絆は、キリストが十字架上で表した無限な神様の愛です。

教会の一致を損なうのは、神様の限界ではなく、人間側の罪です。教会共同体内外の争い、異端、背教、離教などの罪は分裂をもたらし、教会全体を種々の団体や宗派などに分かれます。しかし、神様の変わらぬ愛は、私たちを違ったり分けたりすることは決してありません。神様は、いつも全教会が一つになるように聖霊を注いでくださいます。

2.「聖」である教会

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ教会への手紙3章12-17節)

 

人間の本性が罪によって傷を負っているから、教会の信者も、罪深い者です。ところで、以上の御言葉は、私たちに神様がお考えになった人間らしい聖なる生き方を描いています。神の子、イエス・キリストは、この世に、「罪人を招いて悔い改めさせるために」(ルカによる福音5章32節)、そして、ご自分の死と復活によってすべての人を聖とするために来られました。キリストは、代々にわたって洗礼や他の教会の秘跡を通して、一人ひとりの信者を聖化させ、神の子どもとする恵みを与えてくださいます。したがって、使徒パウロはこう書いています。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ教会への手紙5章26-27節)と。

教会の「聖」は、地上において未完成のままです。人間の行いのためではなく、教会で実現される神様の恵みと救いの業によって、教会は「聖」です。聖性の魂は愛です。聖性の完成は救いの恵みに応えた信者の内に天上の教会で完成されます。そのために教会の信者がこの地上で、謙遜に自分の罪深さを認めて悔い改め、神様の恵みに心を開き、その慈しみと愛に応え、キリストのように生きることに招かれています。

地上においても神様の恵みに忠実に生きた信者を、教会は列聖します。列聖された聖人たちは、困難にあっても神様の愛に応えて聖なる生き方の模範を示し、今よりも代々にわたって教会の霊的な刷新に貢献する者となりました。特に、キリストとの親密な関係の中で生涯を生きた聖母マリアの内に、教会がまったく聖なるものであることを信じています。

3.「公(普遍)」である教会

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音28章19-20節)

 

教会の名称となる「カトリック」(ラテン語でCatholica)という言葉は、「普遍」という意味を持っています。教会は、神様のものですからすべてのためであり、欠けることなく「すべてを含む」という意味です。以上の御言葉の引用の中では、イエス様が御昇天なさる直前に遺言として残した教会の普遍性の意味を言われています。教会は、特定の宗教団体(例えばカトリック教会)のためではなく、特質として、すべての人を含むものにしなければなりません。教会は宣教するためにキリストによって派遣され、キリストの教えを伝え、洗礼を授けて、すべての人をキリストの弟子にし、三位一体の交わりの中に加わるように使命を受けているからです。キリストがすべての人の救い主であり、教会の内に現存されるので、私たちは普遍の教会を信じます。

全世界に広がる「部分教会」は、教区や小教区に分けられているが、すべてが普遍です。なぜなら、各共同体がキリストの名によって集まり、同じキリストがそこに現存するからです。そして、すべての部分教会は、ローマ教会との交わりよって御自分の普遍性を目に見える特質とします。初代のローマ教会の教皇は使徒ペトロだからです。イエス様は使徒ペトロに次のように言われました。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16章18節)と。いわゆる、使徒ペトロが告白した信仰は、十二使徒の信仰告白を総括し、その信仰の上に教会を建てる約束してくださったからです。

4.「使徒伝承」である教会

「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネによる福音20章19-22節)

以上の福音箇所の中に記されている御復活なさったキリストの言葉によりますと、使徒伝承である教会には三つの意味があります。

①   教会は「使徒という土台」(エフェソへの手紙2章20節)の上に建てられたものです。

②   教会は、使徒たちがキリストから聖霊を頂いて、キリストによる成し遂げられた救いの  恵みの管理者に任命され、キリストと同じ使命を果たすように遣わされています。

③ 教会は、世の終わりまで使徒の後継者である司教団によって教えられ、導かれ、聖化されるようにキリストによって選ばれています。そして、キリストが世の終わりまでいつも共におられることを約束してくださいました。(マタイによる福音28章20b節)

5.教会の定義

教会は、信仰生活の体験によって、自分自身を次のように定義しています。「教会は、神の民、キリストの体、聖霊の神殿である」と。

1)教会は神の民である。

「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」(ペトロの第一手紙2910節)

神の民である教会は、歴史上のすべての宗教、民族的、政治的団体と異なり、神御自身に属して統治されています。そのメンバーは体の誕生によるのではなく、水と霊によって「上」から生れた者です。油注がれた者として、キリストの持っている救いの使命を果たし、神様の子どもの品位と自由を持っています。その使命は、「地の塩、世の光」として、人類に神様の救いを芽生えさせ、その目的は、キリストと一致して神の国の実現に貢献することです。キリストの祭司職に与って世界を聖別し、キリストの預言職に与ってキリストについて証をし、キリストの王職に与って神様の愛を持って奉仕のために自分を尽して捧げられたものとなります。

2)教会はキリストの体である

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(コリントの第一手紙12章27~28節)

イエス様は、ご自身の霊によって全世界に広がる教会の一人ひとりの信者の心に生きておられます。それぞれの信者は神から頂いた賜物を用いながら救いの業を行っています。この意味で教会の信者は、イエス・キリストの体となります。したがって、全世界で救いの業を実現していくのは、「全キリスト」である教会であると言います。キリストは「教会の頭」(コラサイ1,18)であり、教会はキリストの「花嫁」であるとも言います。その目に見えるしるしは、御ミサの時に信者たちが頂くキリストの御体です。聖体拝領によって唯一のキリストは多くの信者の内に生きるようになり、皆はキリストの神秘体になるのです。イエス・キリストは、最後の晩餐の時に御自身をぶどうの木に例え(参考資料:ヨハネによる福音15章)、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と言われました。枝が木に繋がっていなければ枯れてしまうから、キリストは、すべての人が永遠に生きるために、御自身に繋ぐように強いて教えてくださいました。

3)教会は聖霊の神殿である

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

(コリントの第一手紙6章19~20節)

神様を否定しない限り、聖霊の働きは、どんな人の内にも可能です。しかし、洗礼によって神様の子どもとなる聖霊を受けた信者は、聖霊の住まいになります。使徒パウロは、信者の一人ひとりは「聖霊の神殿である。」と言います。私たちは、人間的な弱さや罪深さによって聖霊の働きを妨げることがないように、心を開いて聖霊の愛の働きが教会と世界を清め、生かしていくために聖霊の道具になるように呼ばれています。

6.教会の精神を示す四つの特徴

「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」

使徒言行録2章41~42節

聖霊降臨の後に、使徒ペトロは集まった群衆に、キリストの死と復活によって成し遂げられた救いの業について証しすると、その日に3千人程が洗礼を受けて、地上の目に見える教会が発足されました。教会の信者を識別する精神は使徒言行録を引用された上記の箇所の通りです。

一つ目は、「使徒の教え」です。それは、使徒たちがキリストの内に見出した神様を紹介し、救いの福音を宣べ伝えることです。

二つ目は、「相互の交わり」です。それは、神様の呼びかけに応えて神様の家族として一つに集まることです。

三つ目は、「パンを裂くこと」です。それは、最後の晩餐の再現である御ミサに参加してキリストの内に皆が一つになることです。

四つ目は、「祈ることに熱心」です。それは、祈りを形式的ではなく、三位一体の交わりの中での神様と親密の交わりを作り上げることです。

結び

次回は、「聖徒の交わりを信じる」という信仰の内容を意識して、地上の教会の構造と召命、そして天上の霊的な教会を紹介することになります。