メッセージ - C年 年間

テーマ: 「わたしには受けねばならない洗礼がある。」(ルカ1250)

 

この主日ミサの福音(ルカ12章49~53節)の中では、私たちを驚かせるキリストの言葉があります。それは、「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。」とか、「地上に平和をもたらため(...)ではなく、むしろ分裂だ。」とか、家族の人が互いに対立して分かれることについてなどのキリストの言葉です。聖書全体から、私たちは、キリストが愛し合うことを教えて平和の君であること、罪、死やあらゆる分裂から私たちを救う方、御自分の内にすべてを一つに集めるために来られた方であることが分かります。では、何故、キリストは、弟子たちにこれと矛盾する言葉を語られたのだろうか、と私たちに強く考えさせるものがあります。

福音が伝えるキリストの語られる「火」「分裂」の言葉は、私たちがキリストの宣べ伝えられた福音とそのなさった救いの業に応えて、自分たちの人生を変えたのだろうか、という力強く問い掛けるものがあると思います。「この世の平和」は、人間の自我、自己中心、欲望のために度々、立て前に過ぎず、ガマン、妬み、劣等感、憎しみなどに満ちていることに気付く必要があります。イエス様は、このような平和を否定して、最後の晩餐の時に弟子たち(現在に至るまで御ミサに与る私たちに)、世が与える平和ではなく、世が与えることができない真の「神の平和」を私たちに与えると約束してくださいました。

「火」は、金を精錬するものですから、昔から「神の裁き」を表現します。日常の生活の中で、神様からの善を、つまらないもの(罪深さ)から“精錬される”という神様の救いの働きは、火で例えられています。ここでキリストは、この世が地上の価値のために神様の愛とキリストの救いを拒んだりすることを指摘します。キリストは家庭に平和を望み、家族の分裂をけして望んでおられません。ところで、この福音の中で、自分の家族がキリストとの一致を妨げるようなことであるならば、分裂はやむを得ないと言われています。なぜなら、家族のメンバーではなく、キリストのみは、私たちの救い主、私たちの神だからです。

福音の中でキリストが用いる「火」の象徴は、もう一つの大きな意味があります。それは、「神様の愛の火」です。イエス・キリストは、救いの完成を切にお望みになり、御自分の死と復活によって世の救いを成し遂げ、天にお昇りになって御父の元からこの世に愛と永遠の命の賜物である聖霊を遣し、人の心を燃え立たせることを望んでおられます。それは、聖霊降臨の時に実現し、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、(弟子の)一人ひとりの上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされた。」(使徒言行録2章3-4節)ということを弟子たちが体験したことです。そして、地上の教会(神の国)が誕生し、多くの人々は聖霊の満たしを受けました。

イエス・キリストは、今日の福音の中で、私たちに聖霊を遣わすため、先に「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言っておられます。以前、ヨルダン川でキリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、キリストについて、「その方は聖霊とであなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3章16b節)と証ししました。いわゆる、キリストが語られるもう一つの洗礼は、御自分の死と復活です。洗礼の意味どおりに、水に人間の古い自分が沈み、水から立ちあがった回心する人間が新しい人生を送ると同じように、キリストは死に葬られ、死者の内から復活して、新しい命をお定めになったので、洗礼の恵みを完成してくださいました。キリストの御受難を目撃した人は、キリストの予告通りに分裂し、ある者は、「十字架につけろう」と叫び、他の者は十字架の死に至るまで従がってご復活に望みをかけました。十字架の死に至るまでのキリストの愛が地上に燃えることを、この福音の中で強く望まれています。それは、キリストのような無償、無条件、無限の神様の愛の炎です。

キリスト者であるならば、私たちは教会で洗礼を受けたことでしょう。ところで、その式が意味するキリスト者らしい人生を、私たちは送っているでしょうか。全生涯は、聖霊に満たされて愛の火に燃えるように、これからも私たちにも、イエス様のような「受けねばならない洗礼がある」と思います。