聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

序.

この講話は、「教会のカテキズム」の第一編「信仰宣言」の終りの部分をテーマにし、『体の復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。』の信仰宣言の一節を解釈します。いわゆる、信仰宣言は私たち人類の救いが体の復活と永遠の命であることを目的とします。

 

1.体の復活と永遠の命

「(イエスは言われた。)『父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』」(ヨハネによる福音6章37-40節)

 

以上の聖書箇所の中で、キリストは、御自分の使命を紹介致します。即ち、すべての人を終りの日に復活させ、永遠の命をお与えになるという御父の御心を行うことです。ただし、キリストが一人ひとりの自由意志に反することをせず、永遠の命をお与えになる条件は、キリストのところに来て、それを望むことになります。

神様は、世の初めから愛を込めてお造りになった人間の死を望んでおられません。創世記によりますと、神様の御計画の中では、「自然の命」を持つ人間の体が土から造られたが、永遠の命を頂くために神様の息吹(不滅の霊魂)を受けたというのです。永遠に生きるために、人間は神様の愛に応えて神様との交わりの中で聖霊に満たされることが必要とされています。

神様が御手の中で創造された人間の完全な体のことを、ギリシア語で、「PLASMA(プラズマ)」と言います。ところで、罪によって神様との交わりを断ち切った人間の本性は傷を受け、自然の命を持つ体が死すべきものとなりました。罪深い人間の腐敗する「肉体」のことを、ギリシア語で、「SARX(サルクス)と言い、ラテン語で、「CARO(カロ)」と言う用語を用いたりします。

神様は、キリストの内に世を救うために人となり、聖母マリアから御生れになりました。この神秘は、「受肉(INCARNATIO)」と言います。この用語は、神の子、イエス・キリストが人間の罪深い本性を受けられたということを意味します。イエス様が人類の罪を自分の身に負って、十字架上の死に至るまで神様への従順によって罪に打ち勝ったので、人間の死ぬ原因を無くしました。その結果として、キリストは最初の人間として御復活なさったのです。

キリストが御自分の体をもって真の人間として御復活し、自分の体に死因となる傷痕(手足と脇腹の傷痕)をアイデンティティとして残し、弟子たちにお見せになりました。即ち、地上に生きた時の体を持っておられることを証明なさったのです。しかし、復活の体は地上の次元を超える栄光に満ちた「霊の体」になり、同じ人生に戻られたわけではありません。したがって、私たちも地上の人生を終えて肉体が死に、いつか復活の恵みによって栄光の姿に変えられて永遠に生きることができることを信じます。

御父の御心は、神の子キリストの受肉と過越(死と復活)の神秘によって、私たちが自分たちの人生の中で復活したキリストのもとに来て永遠の命を頂くことです。それは私たちが御心を行うかどうかということによって実現されるのです。犯した罪のために人間の体が一度死んだとしても、神様に救いを求める人は、復活の命を救いの恵みとして神様から頂くことができます。使徒パウロは、コリント信徒にこのことを信じるために次の言葉を用いて教えています。

「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

(コリント信徒への第一手紙15 章16-20節)

2.私たちの復活

「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。(コリント信徒への第一手紙15章35-49節)

 

キリストの教えの中で、「神の国が種に似ている」と例えて何度も教えられたことをモチーブにして、使徒パウロは、以上のコリント信徒への手紙の中で、「体の復活」の信仰を説明しています。即ち、地上の命を種に、復活の命を、その種から生え出でる新しい命に比べます。そして、人間が罪に陥って死すべき者になったことのために、キリストの御復活によって神様の愛と命の偉大さ、罪と死に対する勝利は現れました。このようにして人間の死は、神様の栄光を表すきっかけとなりました。

私たちは、罪のために一度死ななければなりません。人間の死とは、不滅の霊魂が自然の体が離れることです。人間が復活の時に地上の生活において、「善を行った者は、復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」(ヨハネによる福音5章29節)と使徒ヨハネは教えます。地上の生活の中で、私たちは、神様との親密の関係を作り上げて行くように招かれています。そうすると死ぬ時に、義人の霊魂は神様の御元に昇り、終りの日に、天に属する者として神の命に満たされた自分の体を頂くことになります。使徒パウロはこれを「霊の体」と言います。義人にとって死は滅びではなく、イエス・キリストによって永遠の命に通ずる門となりました。使徒パウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピの信徒への手紙1章21節)と告白します。

しかし、地上の生活においてキリストの救いの恵みと神御自身を否定した者は、復活して「霊の体」を受けることなく、永遠の罰を受けることになると、聖書の中で教えられています。

3.キリストは「復活であり、命である」(ヨハネ1125節)こと

あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

(コロサイ信徒への手紙2章11-14節、3章1節)

 

地上において、信仰生活とは、復活の恵みを確かなものにするために救いの先取りを生きることです。洗礼を受けることによって、信者はキリストの死と復活に与ると言います。すなわち、回心することによって自我を捨ててキリストの死に与ります。そして洗礼の水の注ぎという典礼の表現を用いて、神様は御自分の霊を注いで永遠の命の賜物をお与えになり、信者に成った人に「神の子ども」の資格をお与えになります。

ところで、地上に生きる限り、人が欲望に負けて罪に堕いることもあるから、キリストは、洗礼に限ることなく、御自分の存在を七つの秘跡の内に秘められ、信者が生涯にわたって自分の内に永遠の命を育むように招いてくださいます。その中で、最後の晩餐の時にキリストは、御自分の死と復活の神秘をパンの秘跡(御聖体)の内に秘められました。こうして、信者は秘跡を受ける度にこの世の次元を超え、キリストの死と復活に与ります。また、キリスト自身がその人の内に復活することになります。この秘儀を受け入れるためには、キリストは、御自分の名誉と命をかけて、前もって次のように教えてくださいます。

「(イエスは言われた。)『わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。』それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。』」(ヨハネによる福音 6 章51-58節)

 

4.私審判

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」(ルカによる福音23章39-43節)

 

地上の人生とは、キリストが成し遂げられた救いを受け入れることも、拒否することもできる期間です。死ぬ時に、救いは、個人が御心に適って人生を完成したかどうかということによって決まります。自分を神様に委ねた人は、キリストのように愛を実行して生きるから、救いの恵みを受けることでしょう。ところで、天国は自分の力によって得るものではなく、神様の恵みであることを忘れてはいけません。死がいつ訪れるか、私たちは分からないので、生涯にわたってどんな時にもこの恵みに相応しい者になるように努めなければなりません。しかし、神様の恵みに応答するタイミングは、地上で働く悪魔の誘惑によって大きく変動し、ある人は一生かかることもあります。

以上に引用されている福音箇所の中で、生涯、御心に従わなかった二人の犯罪人が十字架につけられたキリストと共に死ぬ間際にいることは紹介されています。悔い改めて自分の人生をキリストに委ねる犯罪人の一人をキリストは裁いて、本人の望み通りの天国の救いという審判をくださいました。しかし、キリストを否定したもう一人の犯罪人についてイエス様は、沈黙します。キリストは、罪人の滅びを望んでおられるのではなく、救いに来られたからです。その犯罪人は、イエス・キリストの救いを否定するという私審判を自分に下したのです。その結果は、永遠の罰となります。(ただし、福音のケースについては、悔い改める犯罪人のたしなめによって反省があったかどうかについて書かれていないために、キリストを否定した犯罪人の滅びを、私たちは断言してはいけないのです。)

神様に忠実である人の死とは、キリスト自身を迎えることです。それは、同時に真の命を迎える天国の状態を決める時となります。死ぬ時に神様を拒否した悪人のために永遠の罰が決められています。それは地獄の状態です。地上において不完全でありながら神様とキリストの救いを求めた人が煉獄で清められて天国に入ることができます。

 

5.最後の審判

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネによる福音5 章24-30節)

 

世の終わりに、最後の審判があると啓示されています。最後の審判は、神様の義を揺るぎないものとして教え、神様の愛は死より強く、永遠の命を無償に与えられることを宣言する最後の時であると言います。それを信じることは、私たちが地上の生活において神様を畏れ敬い、悪を退き、無限の愛に生きる力を得るためです。

義人についてキリストは最後の審判の時に次のように言われます。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』(マタイによる福音25章34節)と。また、悪人について、キリストは最後の審判の時に言われます。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』(マタイによる福音25章41節)と。

 

5.新しい天と地

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」(ヨハネの黙示録 21 章1-6節)

 

神様は時間・空間を超える永遠の存在であるが、時間的に考えると、神様は、「始めであり、終りである」と以上の聖書箇所で表現されています。それで、使徒ヨハネは、特別の恵みによって世の終わりにある新しい天と新しい地の様子を前もって見ることができました。救いの完成は、神様と人間は完全な愛の内に一つに結ばれて共に生き、喜びと神様の栄光に永遠に与る状態であると言います。

 

6.信仰宣言の終りの「アーメン」

「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」

(コリントの信徒への手紙二、1章18‐20節)

 

信仰宣言は、「アーメン」という言葉で終わります。ヘブライ語の「アーメン」は、「信じる」と同じような意味を持ち、堅固さ、信頼性、忠実という意味合いも含まれています。信仰宣言は、一人称の「信じます」(Credo=私は信じます。)という言葉から始まります。それは、私たちの一人ひとりが啓示された信仰の内容を受け入れて、これに応えて信仰生活を送ると宣言する言葉です。「アーメン」は、神様、又キリストの業に中心を置きます。信仰そのものは、神様の恵みによるものだからです。イザヤの預言は、真実の神様を、「アーメンである方」(イザヤの預言65章16節)と言います。神様は啓示した信仰の内容は、真実であるということを表現します。信仰宣言を唱えている弱い私たちは、神様が真実な方だから信頼をおき、告白した信仰の内容が神様の愛と力によって自分の内に実現されると信じて祈ります。

結び

これを持ちまして、「カトリック教会のカテキズム」の第1編、「信仰宣言」の講座は完了となります。この第1編の中では、父と子と聖霊である至聖なる三位一体の神様について信仰の内容が紹介されました。

ところで、信仰は神様と交わりなのです。私たちは、人となられたキリストの内に神様と交わることができるために、「カトリック教会のカテキズム」の第2編は、「キリスト教の神秘を祝う」というテーマを紹介します。キリストは、秘跡の内に自分自身を残してくださったので、キリストの内に神体験を祝う典礼について次回より、この講座で紹介することになります。