メッセージ - C年 年間

テーマ:「神殿の見事な石と奉納物の飾り」(ルカによる福音215-19節)

エルサレムの神殿は、見事なもので、そこに巡礼していたイスラエルの人々の誇りでもあり、信じる人にそこに現存する神様の偉大さと栄光を示していました。この神殿がことごとく崩れてしまう日が来るとイエス様が預言なさると、人々は世の終わりの出来事だと思い込んで、それはいつ起こるかを知りたかったのです。イエス様は、人々の問い掛けに応えようともせず、神殿の滅びと世の終わりが同じことではないと説明し、神殿が滅びるかどうかということよりも、自分の人生、自分の心が滅びるかどうかを心配すべきであることを促しました。

信じる教会共同体の中で、神様に献げられた聖堂は、どんなものよりも美しく飾られることは当たり前のことであるはずです。なぜなら、本物の信者は誰よりも神様を愛し、神様に一番良いものを献げているはずだからです。自分を愛している信者は、「教会が貧しいものでなければならない」というようなスローガンを言って、自分が豊かになるように祈りたがるのです。聖堂や福音の神殿の飾りなどは、信じる共同体の心の美しさと豊かさを反映するものでなければなりません。エルサレムの神殿も神様へ愛をはんえいして見事なものとして建設されましたが、キリストの時代に、その栄華と美しさは、多くの場合、神様を愛する心を反映するものでなくなりました。大きな石と飾りを楽しみましたが、神様を喜ぶことが二次的なものになり、多くのユダヤ人は神殿の境内で行われた商売に関心を持つようになりました。だから、その神殿が滅びるとキリストは仰せになったのです。

使徒ヨハネは、愛のない信仰は死んだものであると言います。したがって、肝心なのは、私たち自身が神様の住まいとなって、生きる神殿となることです。教会は、キリストの御体によって養われているキリストの神秘体です。私たちが天国に入って神様と共に永遠に生きるために、キリストはこの世に来て、御自身を隅の親石となって、私たちの内に「神殿」を創り上げて行きます。生きる信仰を持つ私たちがその神殿の「生きる石」となります。こうして、教会の中で神様が生きるようになり、私たちは天国の先取りを喜ぶことができるのです。