メッセージ - A年 待降節

毎回、新しい典礼年度が始まると、聖なる教会はいつも同じ教えを我らに思い出させてくれます。この世を旅する間、我らはイエスの再臨を待っています。この希望を毎日、ミサの中で大きな声で唱えます。心の中に持っているすべての希望のうち、この希望は最も重要なものであり、この希望が我らに完成されるように、聖書と聖なる教会の教えに従います。この希望はキリスト教から始まったことではなく、ユダヤ教の聖書にも、すでに一般的な形を持つ同じ教えがあります。予言者イザヤの時代、神の国民の立場は、彼らが望んでいる立場とは完全に異なっていました。その時、予言者はユダとイスラエルの不正なやり方に対して批判的な言葉を投げかけるだけではなく、国民の希望を守るため、将来行われるイスラエルの栄光について慰めの言葉もかけました。しかし、この慰めの始まりは次の言葉でした。「さあ、ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。イザヤが発したこの言葉の意味は、もっと良い将来を望み、もっと良い時代を待っている間、常に主に従い、主の言葉を聞き、その言葉の通りに行うということでした。ユダヤ人はこの将来を長い間待っていましたが、主が彼らを訪ねたとき、彼らのほとんどが主を認められませんでした。今でも彼らは主であるメシアを待っています。しかしあるユダヤ人達は、現れた主を認めることができ、主を信じ、主を信頼したので、ユダヤ教の中にメシア的運動が始まり、原始キリスト教ができるまで、主の光の中を歩みました。「主の光の中を歩む」とは、パウロの言葉によれば、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てる」ということです。悪を捨て、善を行いながらイエスの光の中をイエスが再び来られる時まで歩みます。信仰によって義とされたキリスト者は、相応しい準備ができたまま、イエスの再臨を待っています。待っているとは、受け身的な意味ではなく、イエスの言葉に従って善を行い、信仰を伝えながら信仰を守っているということです。イエスが人物としていつ現れてもいいように、キリスト者はイエスのたとえ話の僕たちのようにイエスを待たなければなりません。この基本的な義務を忘れないように、聖なる教会は毎年新典礼年度が始まる時にキリスト者たちにこのことを思い出させます。だから、待降節とは、イエスの誕生日を祝うために待っている期間ではありません。次の一年間、イエスの再臨を待ちながら、信者として信仰の証しをしましょう。