メッセージ - A年 復活節

今日の朗読を鍋に入れて、よく掻き混ぜて、その中から出てくるのは何でしょうか、何味でしょうか。その全体から読み取ることができるのは何でしょうか。復活節が続いているもので、その意味の理解を私たちは深めていきます。様々な聖書箇所は違う側面からそれに触れています。祝い続けている御復活の余韻と共に、少しずつ聖霊降臨の準備も始まっています。これらの朗読にも聖霊のことが一つのテーマになっています。

今日改めて思い知らされることの一つは、復活したイエスのことを世が知ることができないということです。一般世間では手を触れることしか経験できないと広く考えられています。そう考える人の知識は残念ながら限られてきます。ただ、それだけではなく、信者でも洗礼を受けているだけで自動的に主を十分に知っているということにはなりません。第一朗読が述べているように、教会の奉仕者の務めによって聖霊を受けることが必要です。

第二朗読は、希望の根拠である復活したイエスを知らない人々に対する態度に焦点を当てています。証明や説得するのではなく、静かに、かつ謙遜に送る生活によって私たちが持っている希望を解き明かすことができます。神を礼拝する重要なところの一つは、自分自身の心であるという記述も興味深いです。典礼の時など秘跡においても、もちろん、主に出会うことが出来ますが、そのような一時的な行事にとどまらず、日頃から自分の内面で神との交わりを持たないと意味がないのです。

最後に、福音に従って言えるのは、信者になって洗礼も受けて、さらに教会の仲介によって聖霊の賜物を受けて人々は、復活したイエスを知るためにはもう一つのことが問われる、ということです。すなわち、イエスと一致しなければイエスを知ることはできませんが、その一致する前提としてイエスの掟を持ち、イエスの要求していることを行うことが挙げられ、そのような人だけには、復活された主はご自分を現すことになるのです。