メッセージ - A年 復活節 |
朗読箇所:使11:1-11;エフェ1:17-23;マタ28:16-20
キリスト教を大学生に紹介する時に、イエスの誕生や公の宣教活動(教え)と十字架上の死についてはある程度理解してもらえます。しかし、イエスが行った奇跡やイエスの復活や昇天に対して『本当に起こったのか?』『化学的に、どのように説明できるのか?』といった疑問がいつも出てきます。現代人らしいこれらの率直な質問に答えに戸惑うことがたびたびあります。その時に気づかされることがあります。それは、これらの問いに何が正しい答えなのかということを考える以前に、先ず自分が信じるものは如何なるものか、自分の信仰があるかないかという根本的な問いに迫られるということに気づかされます。
イエスの昇天の場面に立ちあった弟子たちの中に「疑うものもいた」とマタイは記しています(マタ28:17)。福音書の中の弟子たちは、決して常に模範的な信仰を持っている訳ではありません。イエスと一緒にいながら、イエスの奇跡を目の前に起こっていても、それを理解できないので、イエスはたびたび弟子達の不信仰に落胆しました(マタ14:31; 15:16; cf. マル4:13; 6:51-52, 7:18)。その弟子たちにイエスは近寄ってきて、弟子たちを全世界への宣教のために派遣しました。つまり、イエスは信仰が足りない弟子たちをも含めて彼らを全世界に福音を告げる使命を与えたということです。
二千年たって、キリスト教が全世界に広がっていきます。それは、今日の福音箇所の最後、そしてマタイ福音書全体を締めくくるイエスの言葉にあるように、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」からです(マタ28:20)。マタイ福音書の初めに、戸惑っているヨセフに天使は、マリアから生まれた子はインマヌエル、「神は我々と共にいる」と呼ばれる、ということを告げました(マタ1:20-23)。イエスの昇天の前に、神はインマヌエル、共にいてくださる神であることを度惑っている弟子たちに再確認しました。全世界への宣教の保証は弟子たちの力ではなく、彼らと共にいて、彼らを通して働く神ご自身の力です。
ご昇天は、イエスが天の昇られたのでこの世からいなくなったということを意味するのではありません。教皇ベネディクト16世が指摘したように、主のご昇天によって「私たちも天に昇られることが出来るということです。私たちがイエスの所に行って、イエスの内に入ることが出来る」ということです。「私たちが《天国》と呼ぶものは、イエスご自身だからです。この信仰の神秘を他の人々に告げる内に、それを伝える自分の信仰が強められていくことができますように。
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