メッセージ - A年 祭祝日

6月にはカトリックの祝日が多い、しかも、キリストの人生の出来事を記念し、祝う祭りではなく、キリストの聖体や御心というものを中心に据える祝祭日まであります。本来なら前の木曜日に祝われる祝日ですが、皆が参加できるようにわざわざ日曜日に移動させるほどに大事な秘義を謳っていることが分かります。

聖体の秘跡(エウカリスティア)はただ頭で考える難しい神学的なテーマではありません。聖書的に考えると、まず神にしか与えられない「糧」として紹介されています。その予形は旧約聖書に既にあります。人間は様々なものに飢えていますが、決して物質的なものだけに満足するわけではありません。むしろ、食べれば食べるほど、また食べたくなる現実が見られます。第一朗読が言うには、場合によって糧の良さやそのありがたさを実感するために、神が人間に飢えることをも許したりします。人間を更に満たすために、一時的に窮屈な状態にさせます。旅路で道が険しくなると、普段足りる糧ではもうどうにもなりません。同じように、人生の一番大きな闘いには霊的な糧、天から下ったパンが不可欠です。

次に、聖パウロは聖体を一致のしるしと考えています。面白いことに、本人は最後の晩餐には出席しなかったのに、一番早い段階で聖体の秘跡の制定について「主から受けた言葉」として報告しています(1コリ11,23-26)。一つのパンを作るには、多くの麦の粒を砕いて、一つにまとめて、捏ねて形を整えなければなりません。それは、自分の誇り・自律を超えて、謙遜と連帯性を意味しています。また、一つの盃から飲むぶどう酒(キリストの御血)はブドウの房を絞って、力をもって汁を抽出しないといけないことから、受難を意味しています。なので、ミサで捧げられたパンとぶどう酒はただ他の宗教に多く見られる食事の形態を取る(契約を結ぶ)儀式ではなく、「キリストの体と血そのものにあずかる」パンとぶどう酒なのです。

最後に、福音書を見てみますと、ヨハネは最後の晩餐の場面の代わりに「足を洗うシーン」(13章)を描き、聖体を暗示させるためには「天から下った生きたパン」の話を書き留めています(6章)。後者で強調されているのは、「真の糧真の飲み物」であることです。これは旧約時代のシンボルを遥かに超える現実を指しています。つまり、食べてもまた飢えてしまう他のすべての食料とは違うものです。人間の生命を養い、発展させるためのものだけではなく、それ以上にキリストの命を食べる人に分け与えるための有効な手段なのです。信者に自分の命を分け与えるということは、イエスはまず自分の命を与えなければならない、つまり捧げなければならないことを含意します。ですから、聖体はさらに生贄(いけにえ)でもあります。