メッセージ - A年 年間

イエスは律法学者やファリサイ派の人々について「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない」と語っています。そこには「言うだけで実行しない」という、彼らの言葉と行いに乖離があることへの批判がありますが、それは第二朗読でパウロがテサロニケの教会に向けて語ったことに通じます。テサロニケの人々は、パウロたちが語る言葉を聞いて「それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた」と言われています。神の言葉を神の言葉として語るとき、それを語る者も聞く者も、神の前に謙虚になります。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、神の言葉を語りながら、それを自分の権威の裏付けのように用いました。まさに神の言葉を人の言葉のように、あるいは自分の言葉のように語り、先生と呼ばれ、仕えるよりも偉くなることを望み、へりくだらずに高ぶりました。第一朗読のマラキの預言でも、神とイスラエルの共同体の仲介者である祭司たちに、主の名に栄光を帰することが祝福につながる道であると言われています。

私たちが神の言葉を語るとき、そこにいるのは神でしょうか、それとも私たち自身でしょうか。私たちは神の言葉に仕えているでしょうか。人に仕えさせてはいないでしょうか。イエスに倣って、キリスト者は現代社会のチャレンジを「心理に基づいて神の道を教える」チャンスにしなければなりません。

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