メッセージ - B年 降誕節

第一朗読の創世記で、アブラハムは、自分自身も妻のサラも年老いていたため自分たちの子供は諦めていましたけれども、主の言葉に信頼したので、息子イサクが生まれ、星の数のような子孫につながる家族を得ました。

第二朗読のヘブライ人への手紙は、そのアブラハムの信仰について創世記22章の物語も加えて詳しく語っています。それによれば、やはりアブラハムが神の呼びかけに応えたからこそ、いろいろな困難があっても息子イサクをさずかり、神の約束通り家族を得たことが強調されています。

福音朗読は、ルカ福音書の中の、幼子イエスと両親がエルサレムへ上った時の話です。そこで出会ったシメオンは、イエスを抱いて救い主の訪れについて神を賛美しましたが、また同時に母マリアに向かって、この子が反対を受け、マリア自身も剣で心を刺し貫かれる、と語りました。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)の言葉の通り、マリアはイエスの十字架を共に担うことによって、イエスの真の母となりました。また、そもそもマリアは天使からのお告げを聞いて、最初は「どうして、そのようなことがありえましょうか」と反論しましたが、結局それを受け入れて、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と神の御旨に従うことを選び、ヨセフと結婚し、イエスの母となりました。
マタイ福音書になりますが、ヨセフもマリアとひそかに別れようとした時、夢の中に現れた天使のお告げに従って妻として迎え入れ、生まれてくるイエスを自分の子供として育てることを選びました。

アブラハムもマリアも、そしてヨセフも、たまたま血がつながっていたからというわけではなく、あるいはただお互い好きだからというわけでもなく、神の御旨を受け入れ、神に従うことによって家族を得ました。確かに、私たちは何もしなくても血さえつながっていれば、あるいは戸籍上つながっていれば、夫婦であったり、家族であったりします。けれども本当の意味での「家族である」ことを望むなら、聖家族のように、神の御旨に従って、神の愛の内に「家族となる」よう努力しなければなりません。
私たちのそれぞれの家庭が、そして教会共同体が、世界全体が、愛の内に一つの家族となることができますように。

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