メッセージ - B年 年間

ここ何週間に分けて、ヨハネ福音書6章の「命のパン」についての話を読み続けてきました。そこで特に印象的だったのは、1)イエスが御父の命の与っていると同じように、その命を人々とも分かち合いたい、自分を信じる人をその大きな交わりに取り入れたい、命そのものに与らせてあげたいという熱い想い、それから、2)命の糧は旧約のマンナと違って、ただ神から与えられるのではなく、イエスが捧げるもの、つまり世の命のために自分自身を捧げるものとして与えられるものであり、イエスの苦しみと密接な関係を持っている点です。

このような話を聞くと、当時のユダヤ教の人々だけでなく、現代人も首をかしげる人がいます。イエスが自分を糧として与えて、後代に残す、さもないと世には命と力がないなんて、象徴的な話しに過ぎないとか、あるいは全く馬鹿げた話だとか、という意見が稀ではありません。なので、今日の福音で見るような反応が当然です。多くの人が去っていきます。イエスの教え全体、特にその道徳的なメッセージも魅力的なものですが、もっと本質的な何か、彼の生きた現存である秘跡がなくなると、人々には残る理由もなくなってしまいます。ただ時々集まり、楽しくて他人と信仰を分かち合い、歌を歌うなど、信仰生活にはとても不十分です。

第一朗読と非常に似ていますが、神の呼びかけに従うのは自由です。勝手に選ぶ選択肢だという意味ではなく、最初には必ず神/イエスの無償の呼びかけがあります。しかし、人間に出来るのは、少なくとも、この呼びかけを自由に断るということです。神は人間を強制して、奇跡などのような超自然的な証拠によって強引に信仰を引き起こし、導き従わせるようなことを好みはしません。ですから、宗教には安易に理解できない部分もあることがとても重要です。信仰に関する事柄はまず理解されるのではなく、経験されるものなのです。中途半端な信仰者として生きるとか、好きな部分だけ選んでそれを実現するならば、むしろ自由に去ったほうがマシなのかもしれません。

現代、もしかしたら人々が聞いていられない話、弟子だった人でも躓《つまず》いてしまう話というは、御聖体の話だけではなく、今日の第2朗読の根本的なメッセージなのではないでしょうか。家族は一人の男性と一人の女性が一体となったことを意味するという話。簡単に論理的に説明できないけれども、その絆というのは平等な関係でも支配関係でもないものだという話。一人は自分を低くして、相手に服従し、もう一人は相手を守り、相手のために自分を捧げ尽くすという話。冒頭と比べて、ずっと同じ道筋です。キリストが教会をどれほど愛したかを実感していなければ、結婚において愛の絆で誰かと一生結ばれることの意味を理解しようにもできず、むしろ「難しい話だ」「現代に合わない話だ」としか思えないでしょう。しかし、これより良い話、他に行けるもっと良いところはありません。

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