メッセージ - B年 年間

今日の朗読では、まず「信仰」というテーマが浮かび上がります。使徒ヤコブが言うように、死んだものでないようにするために、信仰にはそれらしい行いが伴わなければなりません。しかし、この信仰の業とはいったいどういうものでしょうか。主に3つ考えられます。

• 証し:聖ペトロのように信仰はイエスを証しし、宣言します。理屈で何かを証明するのではなく、時々何を証ししているのかを自分でもよく分からない時があります。他の福音書には、その証言はペトロ自身から来た知恵ではなく、彼に御父によって表されたものとしてイエス様に褒められた、と書いてあります。この神様の啓示に心を開き、それに対して敏感であるのは信仰です。

• 艱難に耐え忍ぶ力:信仰は何か超自然的なものや奇跡を信じる能力ではなく、むしろ今の私たちに理解しがたい運命を受け止めるための支えです。言ってみれば、眼差しをもっと遠く向けて、目の前のことで一々揺るがされないことを意味します。それは結局聖ペトロにすぐできなかったことです。メシアが苦しみを帯びなければいけなかったことを受け止めるのは信仰の内にしかできませんし、私たち一人ひとりも常に楽に生きることができないことを理解するために信仰が必要です。

• 慈善:信仰は、神様について素晴らしく語ることではなく、神様が愛しておられる人を共に愛することなのです。単なる福祉活動とは違いますが、イエスに従い、イエスが自分を放棄して人々に支えたのと同じように、信仰者の私たちも何らかの形で「信仰のゆえに」困っている人を助けないと、私たちの信仰は独りよがりや、空っぽのものになってしまいます。

以前にもまして、今の時代は何についてでも様々な見方があり、皆が自分の意見を持ち、強調したがる時代です。教会においても、メシアとは誰か、教理や道徳は普遍的なものかどうか、教皇の権限はどこまであるかなど、色々な好都合の個人意見や自己主張が氾濫しています。しかし、それは本来の姿ではありません。多様性がある中でも、答えは神様が啓示したもの、時々受け入れがたいものです。メシアである他に何者でもないイエス・キリストを今日的状況に合わせて、いつも何か違うもの(哲学者、宗教の創始者、道徳の指導者、預言者、政治的な改革者・・・)としてだけ解釈するという誘惑に耐えるためにも信仰が必要なのではないでしょうか。

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