メッセージ - B年 年間

知恵2:12, 17-20   ヤコ3:16−4:3   マコ9:30-37

福音書の中に、イエスは、誰が一番偉いかと権威を争っている弟子たちに、一人の子供 を抱き上げながら、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け 入れるのである」と言われました。自分たちの間に誰が一番偉いか、誰が一番信頼される、 誰が一番重要なポストに就くかと議論している弟子たちに、イエスは単に言葉で語るのでは なく、わざわざ一人の子供を抱けあげながら弟子たちに語りかけるのです。イエスは何を示 したかったのでしょう。

「抱き上げる」というシンボリック(象徴的)な動作は、イエスの言葉にもあるように 「受け入れる」、そして「祝福する」という意味合いがあります。子供を抱き上げながら 、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、私を受け入れるのである」 と言われたイエスが弟子たちに伝えたかったことは、彼らがお互いに受け入れなければなら ない、そして、お互いに祝福しなければならないということです。それを目に見える形で弟 子たちに示していたのです。目に見える形で、「このように御父は愛する子を受け入れて、 祝福するのです。このように、神様は人間一人ひとりを無条件に受け入れて、祝福するので す。だから、同じようにあなたたちも互いに受け入れて、互いに祝福しなければならない、 ということをイエスは目に見える形で弟子たちに示したかったのでしょう。

ところで、お互いに祝福するということはどういう意味なのでしょうか。祝福は、英語 では、to bless という言葉があります。ラテン語ではbenedicereという言葉が表現されていま す Benedicereは、二つの言葉からなっている、bene(良い)とdicere(話す)という意味で す。つまり、誰かを祝福するということは、その人について良いことを話すということです 。子供を抱き上げたイエスが弟子たちに示したかったことは、弟子たちの間で、誰が一番偉 いか、誰が一番正しいか、誰が一番ふさわしいかと議論し互いに比較するのではなく、互い にありのままに受け入れて、お互いの良いことを話して、お互いに祝福しなければなりませ ん。お互いが神の愛する子だからです。

しかし、私たちも生活の中で体験しているように、積極的に人を祝福し、積極的に人の 良いことを話すことはそう簡単なことではありません。それよりは、人の悪口をしたり、人 の欠点を追求したりする方が多いかもしれません。

心から人を祝福するためには、やはり自分自身が祝福されるものという確信を持たなけ ればなりません。つまり、日々祈りの中で「あなたは私の愛する子」という神の祝福の声を 聞くことが必要です。自分は神の愛する子と確信を持っている人だけが、心から人を祝福す ることができます。人間は心の中にあるものを外に移しているのです。

ある日、太ってしまったブッダが木の下で瞑想していると、その近くに一人の若者が取 り掛かっていました。太っているブッダを見て、若者は「あなたは豚みたい」とブッダに向 かって言いました。仏様はゆっくり目を開けて、若者じっと見て、そして微笑みながら、「 あなたは神様みたい」と若者に言いました。若者は驚いて、「なぜそう言ってくれるの?」 と尋ねました。ブッダは答えました。「我々人間は自分自身の心の中にあるものを見ている 。私は毎日神様のことを考えている。だから目をあげて、あなたを見る時に、あなたは神様 のように見える」。

人への見方は、自分が日々神様と培う関係に大きく関わっています。

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