メッセージ - C年 降誕節

今日の祝日には様々な朗読を選ぶ選択肢が与えられています。色々な聖書箇所から家族について述べられていることを伝える朗読です。言うまでもなく、家族は古代人、中でもユダヤ人にとって基本的な価値でした。現代も、教会の社会教説の言葉を借りるならば、家族は社会の細胞です。何故ならば、もちろん、新しい命が授けられ、育まれる環境を提供するからです。神の言が人となられる時に、ただ奇跡的に人間の姿で現れたのではなく、他の人と同じように最初の瞬間から私たちの内の一人として育てられることを拒もうとはしませんでした。

さて、聖家族には何も苦労がなく、何でも神様の計画によって成し遂げられいていたから問題は何一つなかったと美化するわけにはいきません。もしかして他の家族よりも試されて、困っていることもあったのかもしれません。それにもかかわらず、聖家族は遠い模範どころか、今の私たちの家族も実現できるような価値や徳を体現していました。今日の朗読は特に次の心構えについて述べています。まず、敬虔さ。マリアもヨセフも常に神の掟に従い、自分たちだけ特別だという意識を持たず、熱心なユダヤ教徒の一人として暮らしていました。それから、謙遜と従順。神の子は、周りの人の目にはヨセフの息子として育ち、職業を学んでいましたが、必要な時まで両親に聞き従っていました。子供は自立する前におよそ親を見て、基本的な態度を学ぶ必要があります。最後に、理解できないことを思い巡らす忍耐。特にマリアは神の言葉を吟味し、知性で理解できないでいながらも、それを心に抱きしめ、それを噛み砕いたり、理解できる時を切に待ち望んでいたという姿。人生の様々な困難が訪れた時に、すぐ意味が分からなくても、それを探し求める、神の導きがこれからも与えらえると望む態度に他なりません。また、何よりも家族で相手の違いを受け入れられない場合でも、とにかく話し合うことが重要であり、ナザレの家族がこの対話の能力の模範でもあります。

なので、今日の祝日から学べることは、家族とはすごく親しい、自然に愛することができる平等な人同士の集まりではなく、お互いを必要としている人々の共同体であり、相手を自分よりも大切に思う、いや、相手をもう一人の自分と見なす場だということです。

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